マセド監督牧師Blog

Macedo

12月

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集中して、読んでください。私は元牧師です。

最近起きた2人の牧師の自殺に直面して、私は皆さんに自分の証言をする必要を感じました。しかし、私は皆さんに疑いを抱かせたり、信仰を変えたりするつもりはありません。 

私が証言する理由は、命を愛するからです。私は批判などを恐れません。真理の霊の前に、聖霊が今週私にしたことを隠すことはできません。 

私は2006年から12年間キリスト教徒でした。そして、私は何年もの間、信仰とは真逆の多くのことに耐えてきました。

そして、「神の啓示」によって神学コースに入学して牧師になりました。しかし、この機関がこの問題に何一つ関係していないことを明確にしときます。そして、私は無意識のうちに、正当な解放なしに完全な亡命に足を踏み入れていたのです。

 

私は教えられていたように、自分の抱えている問題が砂漠で試されているんだと思っていました。 しかし、時が経つにつれ、それは深刻なものであることがわかりました。私は深刻なうつ病を抱え、自殺を強く望んでいました。多くの人は大げさだとか、信仰の欠如と言います。

数日前まで、絶えず自殺願望願に襲われました。

 

私は、牧師でありながら4年前にユニバーサル教会の礼拝に参加し信仰を知りました。そして、ある礼拝の中で自分に取り憑いた悪霊が現れたときはショックでした。 その時、私の意識が離れ、 体は震え鳥肌が立ちました。(ペンテコステ派と非常によく似ている)身震いでした。非常に大きな憎しみを感じ、鼻を鳴らし、私の体はとても熱く感じ、自分の体を支配することが全くできない状態でした。 その状況から自分が神の祭壇の上で何が起きているのか分からないまま、監督にインタビューを受けていました。

真実が明らかにされ、悪霊が言葉(天使の言葉)で現れました。そして悪霊が使った最悪のことは、聖霊ではなく、騙しの霊であった事を私はほとんど知らなかったのです。私は、自分が思っていたように神の証印を持っていませんでした。そして、悪霊に支配されている人々のために祈っていました。そして、これらの悪霊は私の人生に入っていたのです。私の体には何千もの悪霊が働いていて、私の人生のあらゆる領域で、霊的、肉体的、財政的に私は滅ぼされていました。

 

啓示を通して常に私の頭の中で「私が異端の地にいて、彼らが私の中に悪霊を入れている」と囁かれていた。

そして、私は地獄から来たこの嘘を受け入れたのです。 その後、ユニバーサル教会を去り、引き続き「説教」をし始めました。

 

これが私の人生の最大の間違いでした。徐々に、私が人々のために祈って説教すると同時に私の人生は滅ぼされ、すべての扉(人生の扉)が閉ざされました。私はすべてを失った、特に自分の尊厳を。

 

そして、ある日まで、ユニバーサル教会と関係があったもの全ての事から離れて、私は家にいました。そして、パソコンに向かい自分の伝道サイトにメッセージを書き込みをしていると、なぜか無性にユニバーサル教会に行きたくなったのです。これは土曜日に起こりました。

 

私はユニバーサル教会に行くことに消極的ではなかったのです。そして、教会に着いたら、神様から離れた人々を救う礼拝でした。そこにいた牧師は、招待された人を前に呼びました。私は神様自身に招待されたので一人で前の方に行きました。そして、伝道師が祈ったとき、再び悪霊が現れたのです。

それはあたかも映画が私の心の中で演じられているかのようでした。そして、私はそれらの汚らしい偽りの霊に対し反抗が生まれたのです。

私はすべての疑いを捨て、真の信仰を神から受け入れることを決めました。

自分が悪魔に支配されていて、私の中に悪魔を入れていたのは伝道師や牧師ではないことが明確になりました。そして、イスラエルのキャンペーンがやって来た時、私は全力を尽くしました。その結果、今の私が存在します。神の霊を求めながら、自殺願望から解放され、牧師を辞めました。私は謙虚な気持ちでゼロから全てをやり直しました。

 

そして、神の働きをするためには、まず第1にしっかりとした基礎と真の霊を持たなければなりません。そして、第二に、自殺の犠牲者にならないためには、自分の欠点、プライドなどを認めるために勇気がとても必要だということです。 

 

私は自殺する人が考えることを自分の肌で感じました。そして、率直に言えば、私の牧師や伝道師のためでなかったら、私はここでメッセージを書くことも、生きていることもなかったです。私はただ神に対する誠実さと謙虚さのために死ななかったのです。

私は誰かからお金をもらって悪霊が現れた真似をしたのではありません。そうだったら、私はお金持ちになっているに違いありません。長年、貧しい人生を送りました。狂ったように食べて、40kgも太りました。私は真実を拒み、疑いに支配され、誰からも否定されていました。

 

だから、今この記事を読まれている牧師の皆様に伝えます。私のように苦しみを聖なる試練などと言って受け入れている方々へ、正直になって下さい。世界中を救っても自分の魂が救われていないなら何の意味がありますか?? 悪魔と遊ばないで下さい。

地位(ポジション)は誰も救いません。皆さまが祝福されることを願います 

 協力者:元牧師 アナ クラウディア メンデス 

過去の記事

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祭壇は、祝福される場所であり、また神様と親密に交わりを持つことができる場所です。そして、犠牲する場所でもあります。  

 

祭壇に奉仕する選択は栄光なることですが、決して簡単なことでは有りません。もし簡単であれば奉仕する者は多かったでしょう。
 

しかし、主と奉仕する者だけが祭壇からの喜ばしい実を実感することができるのです。  

それは、永遠で純金やダイアモンドのように輝かしいのです。
 

魂の救いのために神様の御霊の道具であることよりも尊いものはありません。
 

たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。マタイによる福音書 16章26節
 

日中の間、太陽の光によって、そして夜の間、月や星々の光によって注がれた美しさ、豊かさ、世界の壮大さ全ては、1人の魂の救いの栄光とは比べものになりません。
 

魂には値段を付けることはできません。それほどの価値があります。
 

この世界で、たった1つの魂が失われているなら、いと高き神は、その魂のために自分自身を犠牲にするでしょう。  

人類に対する全能者の見方です。神の子の見方も同様です。
 

魂を救う人の報酬を想像してみてください!沢山の魂を救う人の事を想像してみてください…  

魂を獲得する喜びを感じたい人は、祭壇で生き、祭壇の霊に蒔くのです。
 

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。 ガラテヤの信徒への手紙/ 6章 8節  

過去の記事

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唯一の神、 

唯一の父、唯一のイエス・キリスト、唯一の聖霊、 

唯一の主、 

唯一の信仰 

唯一の家族、 

 

唯一の女性、唯一の男、 

唯一の夫、唯一の妻、 

唯一の愛… 

 

唯一の扉 

小さい… 

唯一の道
狭い… 

 

唯一の命… 

この世か、あの世、 

天国か地獄 

新しいエルサレムまたは火の湖と硫黄。 

 

それは1つの決断次第、 

思考か感情によって、 

選ばれた人と呼ばれた人の、 

違いを示す。 

 

 

新契約の杯は唯一であり、 

それは救いの杯です。 

その契約の中で主の血に参加することを、 

参加者はお互いに同意する。 

 

卵を焼かないなら、オムレツは出来ません。 

犠牲的な信仰がなければ救いはありません。 

両方の犠牲なしに契約は成立しません。 

創造主と創造者のこと。 

 

夫婦両方の犠牲なしにどんな結婚が残存しますか? 

契約は関係者の犠牲なしに残存することができますか? 

個人的な犠牲なしにイエスの血の新しい契約の杯を飲むことができるのでしょうか? 

だから、ふさわしくないまま(犠牲なし)でパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。コリント人への第一の手紙 11章27節 

 

救いの葡萄の杯は唯一であり、イエスを象徴しています。 

参加する者は父なる神の契約に、実際に自分の意志を犠牲にして同意します。 

 

聖餐式に参加され皆様、ご理解の上、聖餐式にご参加ください。 

 

過去の記事

Guardai-vos…-

私は、主イエス・キリストが私たちに注意するように命じられたことのリストを瞑想していました。

自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。マタイによる福音書 6章1 節 

 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。ルカによる福音書 12章15節   

 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。マルコによる福音書 8章15節  

「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、 やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。ルカによる福音書 20章46,47節  

 

これらを分析してみると、何かを行いなさいと命じられるときは、何かを「与える」という行為が関係しています。しかし、見られるため、認めてもらえるため何かを与えるなら報酬は与えられません。そして、貪欲によって、残り物だけを与える、あるいは与えたくないということは、神様にとって良くないことです。そして、主イエスは言われました。それらに警戒しなさいと!

しかし、何が守られるべきかについては、「偽善的」であるという行為を伴います。主イエスは、パリサイ人や律法学者のようにならないように警告しました。マタイ第23章でイエス様は、厳しく彼らの行為に怒りました。なぜ厳しく叱ったのでしょうか?

理解するために、わたしたちが今まで話したことと、主イエスが黙示録のラオデキヤの教会に語っていることを考えて見ましょう。

わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。ヨハネの黙示録 3章15,16節 

 その教会は熱くも冷たくなく「なまぬるい」でした。ユニバーサル教会では、「全て」か「何もない」ということを強調しています。特に犠牲のことになると、しばしば過激派だと批判されます。しかし、主イエスがここで言っている事はそうではありませんか?主はさらにまだ「冷たい」方がましだと言っています。それはなぜでしょうか?それは、冷たい人は自分がキリスト教徒である『フリ』をしないので、自分の都合が良いことだけ神様に従い『悪い』証を示し、多くの人々の魂を地獄に投げ込まないからです。 

 なまぬるい者は、祭壇にその一部、半分、またはほとんどすべてを与える『キリスト教徒』ですが、祭壇に自分の人生すべてを犠牲にする勇気はありません。したがって、彼らの証は不完全である為、多くの人が神様に対しも教会に対しても疑いを持たせます。 

 既に熱いものは、祭壇の上にすべてを捧げた者です。その結果、祭壇から全てを受け取り、多くの人が主イエスを知り、主に降伏するように貢献します。そして主イエスを讃美する人生を送ります。 

 従って、なまぬるい宗教的偽善者に怒った主イエスの理由の結論として、主の口から吐き出すと言うくらい、怒っている理由は、マタイ23章にあります。 

 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。マタイによる福音書 23章13節 

彼らは、自分たちの『悪い証言』のために(全てを与えないために)、入ることもできず、また他の人々も入ることを許しません。警戒してください…これがあなたに起こらないように。 

過去の記事

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真の僕とは、善良で忠実な僕です。その僕は主の意志に焦点を当てた考えを保ちます。それは、時々そうするのでなく、教会や家庭の中、どこにいても忠実なのです。 

私は神様が散発的な僕を持っているとは思えません。年365日間、24時間神様の僕か否かです。聖霊様の神殿か否かです。 

 従って、いと高き神に奉仕する者は、自分の責任をしっかりと認識しており、何があっても責任を果たすことを諦めません。家族や友情またはあらゆる約束が、主の優先順位を妨げることはありません。その僕は、忠実な僕の考えをずっと持っているのです。なぜなら主は、その僕にとって、自分の主、父であるからです。 

 主に仕えるに当たって最も栄光あることは、聖霊によって与えられた神の意志のインスピレーションです。僕は、主の御心に疑いがない。何が行われなければならないかを知り、それを行います。その間、主は、自分の意志が行われることを待っています。さらに、主は不可能なことを決して求めません。神様が求めるのは、あなたが与えたり、行えることができることばかりです。 

 さらに、善良で忠実な僕は、主を喜ばせる方法をよく知っています。聖書に記載せれている三人の僕たちの例えで理解できます。(マタイによる福音書25章14-30節)主がタラントを配った後、旅に出ました。そして、すでに彼らは、自分が何をすべきかを知っていたのです。今の私たちも同じです。神様の霊が今、私たちの中にいるからです。 

もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。ヨハネによる福音書 12章26節 

神の御霊がより多くの神様の僕に働き、他の人の信仰を目覚めさせてくださいますように。 

過去の記事

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『主は大いなる神で、大いにほめたたえらるべきです。その大いなることは測り知ることができません。』詩篇 145:3  

私たちは神様の最も聖なる名による尊敬と敬意を与えなければ、神様と関係を持つことは出来ません。 

神の栄光ある存在を認める人は、神様の正義、偉大さ、威厳、恐れを知り、震えます。 

過去の聖なる者たちは、神様の言葉を恐れていたので、尊敬していました。 

私たちは小さい存在ですが、どのように偉大な神に受けいれられることができるのでしょうか? 

答えはこの節にあります。 

『あなたがたは、神がわれわれをあわれまれるように、神の恵みを求めてみよ。このようなあなたがたの手のささげ物をもって、彼はあなたがたを受けいれられるであろうかと、万軍の主は言われる。』マラキ書 1章9節 

私たちの人生の受け入れは、私たちのささげ物によって条件付けられています。その理由を知っていますか? 

非常に簡単です!私たちが祭壇でささげる物は、私たちが誰であるか、そして神様が私たちに表すものを明らかにするのです。 

聖書には、このような推論をうまく説明している素晴らしい例があります。アベルとカインです。神様はアベルとその捧げ物に喜んでいましたが、カインとその捧げ物には喜ばれませんでした。 

 質問は、両方のささげ物の違いは何ですか?それは量ですか? 

もちろん違います!神様はその量を見るのではなく、私たちが神の祭壇で捧げる物の質を見ます。 

アベルはただの羊を捧げたのではなく、自分の群れにあった1番良い羊を神様に捧げました。一方、カインの捧げ物は、おそらくアベルの捧げ物の数よりも量が多かったかもしれませんが、アベルが持っていた最高のものを表していませんでした。 

 神様は祭壇に欠陥のある動物を捧げた祭司たちに怒りました。 

神様は、そのような姿勢を神聖な名前に対する尊敬の欠如と考えました。 

彼らは健康な動物が持っていながら、病気の動物を祭壇に捧げていたからです。あなたが神様の立場なら、それらの捧げ物を受け入れるでしょうか?もちろん受け入れないでしょう!誰も受け入れません。 

 主イエスは、貧しい未亡人の捧げ物を賞賛し、彼女が誰よりも捧げたと言い、また金持ちは残り物の中から大金を捧げと指摘した。そして未亡人の女性は貧しかったにも関わらず、持っていた全ての物を捧げたのです。 

 完璧な犠牲は、神様への純粋な信仰の結果です。 

この事を理解する人は皆幸いであり、神様に行うこと全て質のよいものをします。そして、神様に祝福されるのです。 

過去の記事

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私は過去の人々の生活の中で聖霊様の活動を瞑想していました。例えば、旧約聖書の預言者や族長は継続的に聖霊様の存在を持っていませんでした。彼らは、ノアやアブラハム、モーセ、ヨシュアなどと同様に夢や啓示、もしくは聞き取れる声を頼っていました。 

 神の聖霊は、その場や事に応じてしもべ達に導きを与えていました。そして、しもべは新しい導きが与えられるまで待っていたのです。しかし、誰もが神様の声を聞いたり、導きを受けたり、見たりしたわけではありませんでした。 

 現在では、主イエスに従う事を望む人々の人生の中で聖霊様の永続的な活動が見ることができます。イエス様はこのように述べました。 

『わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。』ヨハネによる福音書 14章16節   

今現在では、私たちは神に導かれるために夢や啓示、神の声を待ち望む必要はありません。なぜなら、神様が私たちに聖霊様を送ることによって、私たちを導く方法を見つけたからです。 

 聖霊様を持っている人は、神様の御心が明かされています。そして、救いの道を知り、神様自身の声を自分の霊によって聞き取ることができるので、その人は自分が神様に属していることを証言しています。 

 聖霊を持たない人は迷い子のようになってしまいます。たとえ教会にいても、その人の選択、行動、決断、そして敗北は、導きなしで盲人として生き、神の声を聞くことができない人の選択の結果です。

聖霊様を持っている人は、いろんなことが見えるのです。しかし、神様は私たちの意思を尊重しているので、勝手に私たちの代わりに選択をしません。そして、神様は私たちを真実の道へと導いてくれます。しかしながら、罪に落ちる人は、それを望んだからなのです。 

『けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。….』ヨハネによる福音書 16章13節 

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そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力(地獄の門(※ポルトガル語聖書参照))もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。マタイによる福音書 16章18,19節   

 この節では、イエス様は石によって教会を建てると明確に示しています。その石は祭壇のことを示しているのではありませんか?イエス様は自分自身のことを指しています。 

そして、さらにイエス様は言いました。地獄の一部の悪魔だけではなく、すべての地獄は、祭壇に対して打ち勝つ事は出来ないと! 

これは非常に強いことです!祭壇にいる人々は(自分の人生全てを祭壇に捧げている人)この地上で神様の権威を持っています。 

祭壇にいる人たちが勝利するのを防いだり、何も止めることはできません。その人が定めたものは全て起きるのです。なぜなら、その人はいと高き神様を表すからです。 

過去の記事

mentira-706x410ヤコブがいた状況は多くのクリスチャンの状況を物語ります。お父さんにエサウと偽り自分で狩って もいないものを捧げ゙た時に、ヤコブは偽りの捧げ物(犠牲)を捧げることになりました! イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」 創世記 27 章 20 節 

自分の兄エサウに似るために偽りの衣(性格)を着ました。

『それからリべカは、家の中て自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せて やり、また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。』 創世記 27 章 15、16 節 

ヤコブは父に口づけをするように近づいて兄の衣の匂いを嗅がせて父を欺いたとき、嘘(罪)の匂いをただよわせた。 

『ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。』創世 記27章27節 

偽り捧げ物(犠牲)をしました。 

多くのクリスチャンは同じ捧げかたをしています。  

 『あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて… 『主の食卓はさげすまれてもよい。』とあなた たは思っている。』マラキ書 1 章 7 節  

 そして彼らは、神が自分に命じたことを「祭壇の上でした」と言います。だから神様が人生にもたらす結果をみることができないのです。その人たちとは反対にザアカイのように自分がなした捧げ物により主イエス様の祝福を受けました! …「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 』 ルカによる福音書 19 章 9 節  

 偽りの衣(性格) 

ヤコブは、クリスチャンの衣の下に曲がった性格を隠していた為、高い代償を払いました! 数年間も、恐怖に怯 え、彼自身はお父さんに対し重い罪を犯していたことを分かっていたのです!  

その罪は彼を昼も夜も追い詰めていたのです。 

 そのようにクリスチャンの衣だけを着る人は同じです。罪を自由に犯すことにより、悪に付け(借金)ができて、つきまとわれます。このような人々は平和もなく滅んで行きます。  

 ただし、以下の人々もいます: 

『…彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たち 、その衣を子羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼ら は神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。』 ヨハネの黙示録 7章 14,15節 

偽りの匂い 

 人の中には、霊的にとても悪い状況の人がいます。霊的に罪により支配されています。だから偽り、人を裁く目 、 不倫(裏切り)の匂いが漂います。これは死の匂いです。 しかし、人生の香り、イエスの香りを漂わせる者がいます。彼らがどこに行っても、周りの人は、その人が主に対する恐れと敬いの念を持って行動していることにすぐに気が付きます。 

 

これらの人々のための解決策は何でしょうか? 

ヤボクの渡し(祭壇)で神に全身全霊を犠牲にして捧げる、有り余るとこ なく捧げること!そして、罪があることを認め、告白し、それを捨てるこ と。この結果は? 神様との出会い、性格の変化(聖霊による洗礼)、新しく生まれ変わること!これがヤボクの渡しでヤコブか行ったことです。 そして、ヤコブの名前からイスラエルに変わりました!  

 神様が皆様を祝福しますように。 

過去の記事

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ヤコブは、父親イサクの長子の相続権の祝福を受けました。 

ヤコブは、階段が天まで続くのを見ました 

その幻の中で天使が階段を登ったり降りたりするのを見ました 

ヤコブは、階段の頂点にいる、主の御声を聞きました 

ヤコブは自分の主人ラバンよりも繁栄してお金持ちになりました 

ヤコブは、その時まで11人の息子がいました。 

ヤコブは再び、神様から継続的な守りを保証するために送られた天使の軍隊を見ました

ヤコブは何の理由で兄を恐れなければならなかったのですか? 

恐れは罪悪感の兆候です。結局、何もしていないのなら恐れる必要はありません。 

聖霊様で証印されて(満たされて)いると思われる者が、ヤコブ同じ恐れと苦悩の霊を抱えているなら、少なくとも欺きの霊に騙されているのです。 

それはヤコブのような成功をもたらすかもしれませんが、あなたが神から悪い良心を取り除くまで、恐れを入れ込む霊はあなたに平和を与えません。

どのように神の霊と恐れの霊を持つ事ができますか?聖霊様と恐れの霊が同じ体に生きることは可能でしょうか? 

ヤコブは神の幻と明らかな成功を収めましたが、彼の魂は平和を持っていませんでした。残念ながら、これは聖霊様によって「バプテスマを受けた」というほとんどの人の状態です。それはヤコブと同じ罪を負っているので、恐れの霊を抱いています。(悪い性格) 

ヤコブは兄のエサウが400人のお供を連れて自分の元へ来ている事を知ってヤコブは大いに恐れました。創世記 32章7節

そこで、ヤコブは主に叫んだ。 

ヤコブはまた言った、「父アブラハムの神、父イサクの神よ、かつてわたしに『おまえの国へ帰り、おまえの親族に行け。わたしはおまえを恵もう』と言われた主よ、 あなたがしもべに施されたすべての恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。わたしは、つえのほか何も持たないでこのヨルダンを渡りましたが、今は二つの組にもなりました。 どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます。 あなたは、かつて、『わたしは必ずおまえを恵み、おまえの子孫を海の砂の数えがたいほど多くしよう』と言われました」創世記 32章9-12節

叫び求めた 

ヤコブの絶望は、彼の先祖であるアブラハムとイサクの神に叫ぶために導きました。この絶望的な叫びは、空虚感に伴わず、反抗する理由があったからこそ示したのです。ヤコブは言った。私の生まれ故郷に帰るように言ったのは主です。私の苦しみの理由は、あなたの言葉に従っているからです。私を殺そうとしている人に会いに行きますが、面と向かって会うコンディションがありません。私の状況を見てください!私の兄は軍兵400人を連れて私の元に来ています。私はどうすればいいのですか??… 

 それでも恐れはヤコブから去らなかった。しかし、神はヤコブにある導きを与えました。もし死んだら、家族、富、神の約束、長子の相続権など何になるのか? 

彼はその夜そこに宿り、持ち物のうちから兄エサウへの贈り物を選んだ。創世記 32章13節   

ヤコブは、平和の人生と恐れから遠く離れるため、すべて持っているものを引き換えにしました。『すなわち雌やぎ二百、雄やぎ二十、雌羊二百、雄羊二十、 乳らくだ三十とその子、雌牛四十、雄牛十、雌ろば二十、雄ろば十。』(創世記 32章14-15節)その当時、砂漠に住んでいる人にとっては本当の宝物でした。 

 

彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。 創世記 32章22,23節 

その瞬間から、何も無い状態で一人になり、祭壇に完全に頼りました。 

従って、主の使がヤコブに現れ、ヤコブを変えたのです。そこで彼はこのように告白した。「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。創世記 32章30節

過去の記事

cordeiro-706x410ダビデにとって神様への様々な犠牲の捧げものは、単なる宗教的な儀式ではありませんでした。もちろん、それはモーセの律法に信仰を表すものでした。 

しかし、ダビデはイスラエルの歴史を通してそのような犠牲が真の信仰の原則から遠ざかっていたことを認識していたのです。 

なぜなら、犠牲の捧げものは習慣的なものになってしまい内容のない強制的なものになってしまっていたからです。したがって、ダビデの人生の中で最大の苦しみの瞬間に彼はこのように言いました。 

あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。詩篇 51:16-17 

そこからダビデはシオンの恵みとエルサレムの壁を建てるために祈ります。(詩篇51.18)

しかし、実際ダビデはシオンとエルサレムだけのために祈っているのではなく自分のことに対しても祈っているのです。神の赦しによって自分の人生が復元されない限り『自分の人生の壁』が建てられない限り(心からの悔い改めをしない限り)神様を喜ばせる義の捧げものを与えられません。つまり、どんなに沢山の犠牲の捧げものを与えても、捧げる者に罪があるならば意味がありません。 

ダビデは主が望む犠牲の種類をはっきりと理解していました。犠牲の捧げものを捧げる者が正しく歩んでいる時のみ価値があるのです。 

その時あなたは義のいけにえと燔祭と、全き燔祭とを喜ばれるでしょう。その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。詩篇 51:19 

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祭壇は、祝福される場所であり、また神様と親密に交わりを持つことができる場所です。そして、犠牲する場所でもあります。 

 

祭壇に奉仕する選択は栄光なることですが、決して簡単なことでは有りません。もし簡単であれば奉仕する者は多かったでしょう。

しかし、主と奉仕する者だけが祭壇からの喜ばしい実を実感することができるのです。 

それは、永遠で純金やダイアモンドのように輝かしいのです。

魂の救いのために神様の御霊の道具であることよりも尊いものはありません。

たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。マタイによる福音書 16章26節  

日中の間、太陽の光によって、そして夜の間、月や星々の光によって注がれた美しさ、豊かさ、世界の壮大さ全ては、1人の魂の救いの栄光とは比べものになりません。

魂には値段を付けることはできません。それほどの価値があります。

この世界で、たった1つの魂が失われているなら、いと高き神は、その魂のために自分自身を犠牲にするでしょう。 

人類に対する全能者の見方です。神の子の見方も同様です。

魂を救う人の報酬を想像してみてください!沢山の魂を救う人の事を想像してみてください… 

魂を獲得する喜びを感じたい人は、祭壇で生き、祭壇の霊に蒔くのです。

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。 ガラテヤの信徒への手紙/ 6章 8節 

過去の記事

A-Marca-de-Deus

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」ヨハネによる福音書 6章27節  

 古代の王たちは指輪の印章で法律を制定していました。今日(こんにち)では署名です。 

聖霊様の洗礼(バプテスマ)は、神様の奉仕者としての印章であり印なのです。地獄全体は、この印章の印よって忠実である者だと認めます。したがって、悪霊は印章を持っている者を支配することが出来ません。しかし、この印章を持たない人はどんなに神様を信じていても、地獄の襲撃から完全に逃れる保証はありません。 

過去の記事

Poder-da-Fé-para-o-Mal-

分別ある者は、信仰の力を疑いません。それはどんな状況にもかかわらず信仰が働くからです。もちろん、あなたが信仰を不当なことや罪深いことと組み合わせようとする時、神様の信仰は働きません。 

 信仰には勇気が必要です。しかし、その信仰に嘘、欺き、汚職、またはその他の間違った手段を使用する場合、それはもはや信仰の力(神様の力)ではなく、肉の力(自分の力)です。 

神様の信仰は、知性が伴います。信仰が私たちの中の聖霊様の働きであるならば、信仰が罪と結びついた状態でどのように実を結ぶと思いますか? 

信仰の力を使って、他人の夫や妻を奪うことは可能ですか? 

 そして、祭壇の霊が、結婚を聖別するのと同じように捧げものを聖別するのと理解した上で、祭壇で信仰の言葉の約束を果たすことなく、安定した関係を維持することが可能ですか?(マタイによる福音書23章19節参照) 

 罪の実を満喫するために善の力を使えると思いますか? 

自分や子孫にも影響する呪いを後に収穫せず、嘘や汚職に基づいて富を築き上げることは可能ですか? 

悪いことと関係を持ちながら、悪いことから遠ざかる事は可能ですか? 

次の文章を読んで瞑想してください。 

わざわいなるかな、災の手を免れるために高い所に巣を構えようと、おのが家のために不義の利を取る者よ。ハバクク書 2章9節 

 要するに、何らかの利益を得るために悪の手段を使う者は誰でも、遅かれ早かれ誰でも悪によって滅ぼされます。 

まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。ガラテヤ人への手紙 6章7節 

過去の記事

Qual-é-a-sua-igreja--

神の王国は秩序と規律で作られています。主の体として、教会(地上の神の国)は、聖霊から生まれた人々によって形成され、様々な福音を伝道する宗派が存在します。  

 この完璧な身体は頭部に従って調和して厳密に働きます。そこには、不規律、反逆、不服従、侮辱などはありません。むしろ、一人一人は、服従と愛でお互いに調和して働きます。  

 全員が1つの目的のために働きます。それは、世界に神の王国が広がるためです。  

地獄の門が御自分の教会に勝つことはないと言った時、主は霊的な教会の事を言っていたのです。 (ポルトガル語聖書では、地獄の門と記載されています。日本語の聖書には陰府の力と記載されています。マタイによる福音書/ 16章 18節を参照) 

 それは組織的な教会とはまったく異なっています。  

霊的な者は、主イエス・キリストに奉仕していますが、組織的な働きは自分自身のために働きます。  

組織的な教会のメンバーの間には、多くの利益相反があります。それぞれが自分の利益のためだけに働きます。そして、欲望が自由に支配します。  

 疎外、派閥、名誉毀損、中傷、嘘は、キリスト教と呼ばれる異なる共同体の悲しい1つの現実です。そして、これらが起きるのは、彼らが再び新しく生まれていないからです。というよりも、再び生まれることができないのです。なぜならこの世界で自分自身の欲望を殺す事が出来ていないからです… 

 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。ヨハネによる福音書 12章24節 

そして最悪なことは、神の国(霊的な教会)に入りたいと望んでいる人を、肉から生まれた人たちが、入ることを妨げているということです。 

 そして、彼らは好きなように聖書の言葉とイエス様の名前を使っているのです。  

 彼らのパン種に対する注意は、少なくとも自分の永遠の救いを守る義務を負っています。  

主イエスがあなたを祝福されますように!

過去の記事

A-Fé-e-a-Justiça--

信仰によって生きることは義によって生きるということです。つまり、本当の信仰を持ちながら、嘘をつくことはあり得ません。神様の御言葉を信じながら、悪魔が好むことをする事はあり得ません。しかしながら、その信仰が宗教的、感情的、センセーショナルでない限りです。

【センセーショナルとは、人々の関心を強くひくようなさま。】 

 しかし、信仰が神様の知恵の言葉に頼り、賢く行動に移されている時、信仰が失敗することは不可能です。  

 主イエス・キリストは、賢い信仰の創始者また完成者である。つまり、信仰を始まらせるのも完結させるのもイエス様です。ですから、信仰と義は、切っても切れない関係であり、伴って歩んでいるのです。信仰は人を神様の姿に相似(そうじ)させます。そして義は聖なる神様を表しています。  

 それは、主が教えて下さった事と同じではありませんか。 

見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。ハバクク書 2章4節 

わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。 ヘブル人への手紙 10章38節 

 それは信仰と義の永遠の結婚を表します。信仰は罪人を正しい者へと変えます。 

 信仰によって生きることは、義によって生きることです。つまり、神聖なる神様の前で正直に、正しく、賞賛し、喜ばせることです。神様は正義であり、私たちが神様との交わり及び正当な人生を歩むために信仰を貸してくれたのです。つまり、信仰から信仰へ、あるいは正義から正義に至るまでです。このような信仰は神様を喜ばせるものです。 

過去の記事

O-firme-fundamento-de-coisas-esperadas--

人の目には不可能だと思えること、それは、病気の癒し、最愛なる人(家族や恋人)の解放、また、個人的な夢の実現など。これらを見るためには、神様の約束に対する信仰が、唯一の方法となります。他の選択肢はありません。

どのようなタイプの信仰? 

テーマの通り、望んでいる事柄を確信させる信仰です。つまり、御言葉に約束されていることへの確信です。そして、この書かれている御言葉は人から出たものではなく、全能なる神様から出たものであり、失敗することがない為、いかなる状況であっても書かれている約束が果たされる保証となります。だから、何を犠牲にしても起きなければいけないのです。

主イエスは、悪魔に勝利する為に、この信仰を使用したのです。神様の御子(主イエス)が使用した信仰によって砂漠で勝利できたのなら、現代でも同じように、神様の子どもたちも勝利できないのでしょうか?

私が思うに大きな問題は、信仰者の多くが神様の約束からくる確信に頼っているわけではないということです。その逆に、彼らは心の感情とキリスト教の信念を混ぜ合わせているのです。あるいは、自分の持っている御言葉に対する信仰と、聖書に書かれているしるしとは関係のない他の人の意見と分けています。

私は人として、自分が誓った言葉を果たせない時、自分の中に怒りが生まれます。そこで全能者である神様を想像してみて下さい。神様は失敗すると思いますか? 

イエス様はこのように述べました。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。 マタイによる福音書24章35節

過去の記事

A-Fé-não-chora

そのとおり!真の信仰、賢い信仰は、泣かないし、後悔しません。それは鉄のように硬くて丈夫であり、正義と同じです。その信仰だけが、いと高き神様を喜ばせます。神様は感情的な心の訴えに騙されません。神様の驚くべきわざを見るために、信じる者は行動に移す必要があります。その行動とは、この世から見たら狂った勇気ある行動です。 

イエス様はいちじくの木を見本にして、その事を使徒たちに見せました。  

主イエス・キリストは信仰の創造者であり完成者です。それは創造された人間とのコミュニケーションの道具として創造されたことを意味しています。よって信仰なしでイエス様に近づくことは不可能です。信仰は目に見えない橋のように、私たちを正義の王座(神の御前)へと導き、私たちを正当化します。 

 

どのようにしてその真の信仰を手に入れるのか?  

それは、聖書の教えを聞いて瞑想するという単純な事実のなかで、信仰の霊である言葉の霊を吸収することで可能となります。

したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。ローマ人への手紙 10章17節 

主イエス・キリストは実現化された御言葉であり、彼の霊は信仰の霊です。神様の御言葉を謙虚な心で聞けば、すぐに信仰の霊が行動に移させます。そして、滅びる者たにとって愚かな信仰を生み出すのです。 

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 ヘブル人への手紙11章1節 

 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。マタイによる福音書11章25節 

過去の記事

Ide!--

家から職場、職場から家、一日中私たちは常に重要な指示やアドバイスをします。  

イエス様もまた昇る前に下記のような命令を残しました。 

それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し… マタイによる福音書28章19節 

そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。マルコによる福音書16:15  

言い換えれば、すべての国で弟子を養成し、すべての人々に福音を宣べ伝えることは、私たち1人1人の役目なのです。  

主イエスがこのような命令を下された時、例外があったと思いますか。それか、他の事で忙しかったので何かを言い忘れたと思いますか?  

いいえ!  

世界のどこでも弟子を養成することは可能です!  

ユニバーサルがまだ到着していない場所に到達することは可能です!  

そしてそれはすべて私たちひとりひとり次第です!  

私がまず行かなければ、弟子たちを養成することができず、福音がすべての造られた者に宣べ伝えられません。 

あなた、監督、牧師、副牧師、伝道師…あなたは何を待っているのですか?  

私たちは地球上で神の国を拡大しなければなりません。  

私たちの主は言ました。行きなさい!  

だから今すぐ行こう、私たちは時間を無駄にすることが出来ません! 

過去の記事

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失われたものを救うのは、主イエス・キリストの御言葉への信仰です。  

人生を回復させるのは、主イエス・キリストの御言葉への信仰です。  

滅びた人生を変えるのは、主イエス・キリストの御言葉への信仰です!  

主イエス・キリストの御言葉への信仰によって、神様の御前で正しいものだと判断されるのです。  

癒すものは、主イエス・キリストの御言葉にある信仰です。  

 

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。ヘブル人への手紙 11章6節  

 それゆえ、どのような疑いも、罪と定められます。なぜなら、疑いは罪だからです。食べ物であっても食べるものが疑わしい場合は、罪があります。信仰でないことはすべて罪です。すなわち、それは罪と定められるのです。それが何であれ、疑いは悪魔のものなのです。  

 しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。ローマ人への手紙 14章23節 

そして、このような質問があります。信仰によって救われる者は誰ですか?  

この質問は、信仰の霊、すなわち聖霊様によって洗礼された時と答えられます。水と聖霊様によって生まれた者だけが、信仰によって生きることが出来るのです。なぜなら、聖霊様から生まれた者は霊、つまり信仰の霊によって生まれたのです。霊(信仰)の者だけが、霊(信仰)によって生きることが可能なのです。 

信仰によって生きるとは、神様の霊に頼って生きることなのです。信仰によって生きるとは、霊によって聖霊様の為に生きることなのです。  

 神様は私たちに憐れみ深く、私たちに信仰によって生きることを要求したけれど、神様は私達にそれを可能にする信仰の霊を与えました。神が私たちに信仰によって生きる力を下さらないなら、神様は信仰によって生きるように私たちにどのようにして求めていますか?  

聖霊とのバプテスマを受けるとき、信仰によって生きる力を得る為なのです。疑念は間違いなく神様を喜ばせないので救われることができません。  

信仰は絶対的な確信です。信仰は感じるものではありません。  

絶対的な信仰が存在するなら、信仰する相手に従えます。 

すなわち:信仰+従い=奇跡 

過去の記事

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十分の一、供え物、犠牲については信仰と正義の問題です。議論したり質問したりする理由はありません。それは、主の言葉を純粋に従うということです。  

 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。ヘブル人への手紙 11章4節 

つまり、アベルは信仰のゆえにカインよりも優れた犠牲を捧げました。この信仰の犠牲によって義と認められ、神様の御前でふさわしい者とされました。そして、アベルが神様に捧げた犠牲は信仰によって個人的な決断でした。  

 神様はアベルの犠牲で何をしましたか?何もしていません。しかし、アベルの犠牲によって、主は彼の信仰と信頼、その上、物質的なものに囚われていないことを見ました。これは神様を喜ばせる信仰の一種です 。  

 信仰は自発的です。この信仰の持ち主は、信仰の霊、すなわち聖霊様からこれを受け取りました。誰もその信仰を行動に出したり、使ったり、表したりする義務はありません。特にあなたの中にそれがないならば。それぞれ自分が持っているものを与えるのです。神様は条件を与えずに、神様を忠実に信じろと義務付けたりしません。 

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どんな罪も罪です。大、中、小に関係なく永遠に裁かれる可能性があります。  

罪の支払う報酬は死である。ローマ人への手紙 6章23節  

しかし、罪の中には人が気づかない微妙なものがあります。それは心と非常に密接に結びついてるので、心の一部のように見えます。宗教的な人の特徴に非常によく似ています。口には笑みを浮かべ、心には悪意を浮かべる。 

 彼らの1人がイエス様に聞きに来ました。 

「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。 それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。(純な悪意)  マタイによる福音書 22章16,17節 

 

まず先に褒めて、次に悪意。彼たちはイエス様の口から出た言葉でイエス様を裁こうと考えていたのです。従って、悪意とは少しずつ人を殺していく罪の一種なのです。  

従って、人が邪悪な意図によって満たされている限り、神様に注目されることはもなく、人生の障害物を取り除くもありません。  

心に悪意がありながら十分の一を忠実に返しても意味がありますか?  

これは神様と悪魔を喜ばせる試みではありませんか?  

意図に悪意がある人に神様が訪れることは可能ですか?  

これは多くの宗教者たちの生活の中で最も大きな支障(壁)となっています。  

彼らは全てを悪い目で見る。  

彼らは悪意を持って牧師を見る。  

彼らは悪意で捧げ物を見る。  

彼らは悪意を持って伝道師や他の人々を見る…  

ここで、主イエスの言葉を聞きます。  

あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。ルカによる福音書 11章34節 

過去の記事

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宗教者たちの肉体的かつ物質主義の性質により、10分の1と捧げ物を物質的な価値観で捧げさせることによって、クリスチャンの間に悪意を入れ込みました。しかし、実際には全く異なっているのです。 

 

偽善者の霊的価値は物質的な価値に左右される。つまり、物質的な物事の成果を優先させ、次に霊的な成果を達成するのです。 

 

主の教えは、主に従うことに関心を持つ人にとっては、明らかで正確です。 

 

…まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。マタイによる福音書 6章33節   

 

神の国と神の義を求めるとは、霊的な価値観を優先するということです。直ちに罪を捨て、神様の言葉を従うということです。  

私たちは、これを意識的、賢い、知性的な信仰と呼んでいます。感情が入っていないバランスが取れた信仰です。 

 

これに応えて、神の御霊(聖霊様)は神様の御子(イエス様)によって約束されたように、全てのニーズ(必要性)を満たす義務があります。 

 

不当なことがないことや物質的な快適さは、神の子たちのために与えられますが、いかなる状況下でも、物質的なことを最初に優先することはできません。 

クリスチャンが物質的な快適さを優先にする時、霊的な快適さを失いますが、霊的な事を優先にするならば、物質を得るのです。 

これを理解することは簡単です。 

 

意識的な信仰は、あなたが物質的な所有物を獲得するように導くものです。この霊的な価値がある場合、物資的な財産を獲得し確立するための条件として、力、勇気、神様の知恵を与えます。 

 

もちろん!もし主イエスに服従する霊的側面が事実ならば、物質的側面である家族、経済、健康など、他のものもまた自然に祝福されます。 

 

これが、神様と成功するための方式であって、他の方法はありません…。 

このルールを逃れることを望む人は、魂の救いを失ってしまいます。 

「クリスチャン」の大多数は、神の御国を優先せず、神の義の道を歩まず、また自分の思うように神の御国と神の義を歩もうとしているから、失敗しているのです。 

 

つまり、両方が間違っているのです。このような人たちは信仰者の間では、冷えています。しかし、不信仰者の間では、自分が熱い信仰者だと思っているのです。残念なことに、彼らはぬるい信仰であって、正しい時に、その場所から出されてしまうでしょう。 

 

このような人々は、10分の1は重荷となり、捧げものにうんざりします。また主イエスのような霊的価値を認識しなかったため、カインの呪いを自分の中に運んでいるのです。 

 

十分の一と捧げものは、神様の言葉のように神聖で聖なるものです。主イエス・キリスト同じように純粋です。それは創造主と創造物の関係においてイエス様を象徴するものだからです。 

生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。コリント人への第一の手紙 214 

過去の記事

Mais para o Altar, menos para mim

イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、 また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て 言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。 ルカによる福音書 21章1-4節 

イエス様は、祭壇が供え物を聖別すると教えて下さりました。  

イエス様は他の事を行わずに、観察していたのです。(過去のように現在も観察しているのです。) イエス様は、全員が祭壇へどのように気を配っているのかを見ていました。なぜなら、私たちが祭壇で行う全てのことは、神様に行っているからです。  

 そして、私たちが選択して決心したものから何を優先しているのかが分かります。もちろん、自分がより大事であると思うことや人たちのために、より多くのことを行います。 

さいせん箱を前に、金持ちは祭壇のためには少なく行い、自分自身のためには多くのことを行いました。しかし、あの貧しいやもめは、自分自身よりも祭壇に多く行いました。  

 より多くの事を自分自身の人生のために行うほど、受けるとるものは少ないとは知られています。その証拠として、30、40、50歳で教会に来た人たちは、今まで自分の人生のためだけに尽くして来ましたが、何もない状態で教会にたどり着きます。  

これとは対照的に、私たちが祭壇のために行えば行うほど、祭壇から祝福を得ることができます。例えば、貧しいやもめは今日まで認められ、栄誉を受けています。  

 すなわち、人生と信仰の秘訣は、いつも祭壇の為により多く行うことです。  

 例えば、あなたが誰かに悪い感情を抱いていて、あなたは相手を許したくないけれど、それでも許す。  

その時、あなたはどちらに多く行ったと思いますか?自分のため、あるいは祭壇のため?  

許したならば、もちろん、あなたは祭壇のためにより多く行いました!  

もしあなたが許していないならば、あなたは自分自身のために多くのことを行い、救いを受ける機会を失います。  

 救いは、祭壇のために多くを行うすべての人に存在します。 

過去の記事

o-que-é-viver-pela-fé-

この世に属する人々は、「信仰によって生きる」という意味を決して理解できません。  

理解力を閉ざした(盲人にした)世の神々が、人生から追い払われない限り。  

信仰の言葉は神様の言葉であるため、この世にとって愚かな言葉なのです。  

 この世の人々の人生が信仰者にとって愚かなように、信仰によって生きる人の人生は、この世の人々にとって愚かなことです。 したがって、この2つの世界は根本的に正反対なのです。 

 実際、この世を愛する者は、神様の敵だと見なされるほど、とても深くて強いものです。 

不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。 ヤコブの手紙 4章4節 

 世を愛する者が、唯一理解できるのは、栄光、名誉、成功、虚栄心、セックス、お金、力、贅沢、結局は物質的なものに焦点を合わせるのです。 彼らは生きている間に物質的なものだけに気を配り、自分の欲望を最大限に満足させることだけに焦点をおいてるのです。  

これらの人々は、どのようにして神様の言葉や信仰を理解するでしょうか?  

しかし、賢い者はいと高き神様の言葉に注目します。下記で述べられるように  

「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。 わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。  ヘブル人への手紙10章37,38節 

 この世に反しながら信仰によって生きる人々は、霊を重視して神様の言葉で霊を養う。魂を罪から守り、注意する。  

信仰によって生きることは、正義と神様の義によって生きることです。神様の言葉の規律に従って生きる。そして毎日、神様を頼って生きて行く。  

 これが、神様に正しいものと見なされる人です。

過去の記事

Loucuras-da-fé十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。コリント人への第一の手紙   1章18節    

 この失われた世界で、誰が見えない者のために自分の人生を犠牲にすることができるのでしょうか?あるいは、古い人生を犠牲にした後に続く新しい人生のために? 

 多くの人々が祝福と引き換えに、自分の財産、お金、車や宝石などを犠牲にしました。ですが、罪から離れ、クリスチャンとして生活するために、両親、子供、家族、そして何よりも自分自身の人生を犠牲にすることを誰が望んでいるのでしょうか?ごくわずかな人です。 

信仰のメッセージは、祭壇での犠牲は小さなことよりも、多くの犠牲を要求します。 

 イエス様ははっきり言われた: 

わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。マタイによる福音書   10章37-39節    

 すなわち、全ては全てです。したがって、十字架の言葉は愚かです。 

私たちの全てと引き換えに、神様の全てであった神様の御子を引き換えにしたのです。 

私たちのすべてとは何でしょうか?幸せな人生?繁栄?健康な身体? 

いいえ!何度も言います、違います! 

 

人々の人生は悪くなっています。恋愛的に絶望、家族の崩壊、職業上での失敗、最終的に体、魂、精神面において絶えず苦悩を抱え生きています。またそれだけではなく健康すら損なうこともあります。墓場の一歩手前の人生とも言えるでしょう。 

 

そうです!神様の全てと引き換えに私たちが与えなければならないものは何でしょうか? 

救いは、理論ではなく、実際に信じる人のためです。 

クリスチャンの信念は実践的な犠牲を必要とするので、この世の人にとってそれは愚かなのです。 

 

神様が皆様を祝福しますように! 

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10月

Maldição da maldição

呪いとは霊です。

疫病のように、被害者が存在する限り働きが絶えません。呪いは想像できな居場所から生まれました。それはエデンの園です。 

エデンの園には、飢え、病気、憎しみ、悪いこともなく、死も存在しない真のパラダイスであり完璧な場所でした。全てが素晴らしく、完璧で永遠に残るために創造されました。創造主と創造されたものと自然のバランスを保っていたのは正義でした。 

 しかし…。創造された者の不従順によって、人間の心の中に罪の王国が開かれたのです。 

どんなに無害と思えるものであっても、すべての罪は不当な行為です。 

御座の基が、正義と裁きである神様がどのようにして不義を受け入れるのですか? 

雲と暗やみとはそのまわりにあり、義と正とはそのみくらの基である。詩篇 97:2  

 不義を行う者は直ちにその御前から追い払われました。そして、人間の心の中で正義の王国から不平の王国に代わり、暗闇の王国は光の王国の場所を取りました。つまり、サタンの王国は神の王国の場所を乗っ取り、祝福の代わりに呪いに変えてしまったのです。 

そして最初の両親の反逆以降、人類はそのように歩でいます。つまり、呪いの霊は、世代から世代にかけて親から子に至っているのです。      

そう、罪は呪いです。そして、人は呪いの奴隷です。 

奴隷が自由を手に入れるためには、迫害者から離れるか逃げなければなりません。 

まさに、アブラハムの行いです。 

アブラハムの土地、親族、父の家を支配している呪いの霊から自分を解放するために、アブラハムはすべてを捨てなければなりませんでした。 

アブラハムは神様の声に従う為に悪影響を与えるすべての人から自分自身を遠ざけました(離れた)。つまり、アブラハムは自分の罪の人生を犠牲にしたのです。したがって、アブラハムは呪いを捨て、彼自身が祝福そのものにななったのです。あなたは、罪の呪いから逃げることができていますか? 

何故なら、罪を生きながら祝福されるのは不可能です。  

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光を反映するすべてのものがお金でないように、イエス様を信じると言う人が皆、本当に信じているとは限りません。 

多くの善良な人々は信じていると信じるを誤解しています。そのため、非常に多くの人々が信仰に不満を抱いているのです。 

もし、信じるが、信じているに基づいていたなら、こんなにも「偽りの兄弟たち」によってイエス様の名が恥にさらされていなかったでしょう。 

信じていると信じるでは意味が違います。 

 

「安定した関係」を求め、人を信じて恋人になり、『信仰』を使って社会の期待に応えているつもりでも、結局あなたは『独身』のままです。 

 この状態を霊的な観点から見てみると、これは役に立たない無益な感情と情熱が信仰に混ざっていることを示しています。 

イエス様を信じるに基づくなら、その関係は情熱の感情に基づいて発展します。その中で、個人的な願望を犠牲にしたり、敬意、与えられた言葉に従いません。 

 その反対に、聖書の御言葉に沿ってあなたが誰かを信じている時、無条件に力を尽くし捧げる責任を受け入れることになります。このような人たちの結婚こそ全能者(神様)がつくられた永遠に続く結婚なのです。 

 ギリシア語の原本で「信じている」という動詞は、上記に書かれている責任を受け入れる約束を示しています。この約束は信じる人々が死ぬまで犠牲を伴うという意味も含められています。 

これは永遠の命を保証する信念の一種です。 

御子を信じる者は永遠の命をもつ。ヨハネによる福音書   3章36節    

信じていない者は、泣きながら歯ぎしりし、人と硫黄の池に投げ込まれると運命づけられています。 

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この主題をよりよく理解するには、祭壇で結婚しようとしている新郎の手にあるペアリングを見てみましょう。それは何を象徴していますか?彼は花嫁と新たな人生を築き愛するため、独身の人生を完全に犠牲します。それは言葉だけの愛ではなく、お互いにこの相互の愛を証明する行動があります。良い時も悪い時も忠実な旅であり、人生がもたらす挑戦を克服するために、両者はこれまで以上に互いに寄り添います。 

 

結婚する人は、自分のすべてを尽くす必要があります。もし、配偶者の一人が不倫をしていると、その夫婦はどのようにして幸せに生きて、お互い完全に交わりますか?犠牲がない結婚生活で、互いに捧げきれないなら崩壊してしまうでしょう。 

 

聖書には契約という言葉が数百回以上にわたり書かれています。これは、この主題をより深く理解するため、また神様との契約を持つための条件を理解する上でとても重要だと示しています。 

 

契約とは聖書によると、関係者の間で責任と義務が確立されている2人以上の人物との約束である。神様との契約は、結婚が例です。しかし、現代のように多くの人が結婚してすぐに離婚するのとは違い、最後まで忠実であり続ける約束です。それが本当の犠牲の表れです。 

 

結婚して一緒に人生を始めるのと同じように、神様もまた、この暗くて残酷な世界の中で誰かと契約を結び、神様の存在と力を現せれれる人を見つけようとします。 

 

主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。今度の事では、あなたは愚かな事をした。ゆえにこの後、あなたに戦争が臨むであろう」。歴代志下   16章9節 

 

神様は御国の建設のために規則を設立しており、これには人間の協力が必要です。神様は神の創造物の参加なしに、この世に神様の御国を設立する事はできません。神様は霊であり、私たちを通して神様の偉大さを示すために、私たちの生活の中でご自身を発揮することを望みます! 

神様は、誰かの人生に絶対に強引に入りません。もちろん、人を神様のために生きろとも強制しません。しかし、神様に振り返る者、完全的に生きた犠牲と共に自分の全てを捧げる者、花嫁が結婚式に自分の花婿に自分の全てを捧げるように、神様は聖霊様によって、その人の存在を御霊で満たして神様はその人の中に宿ります。

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世界は何も経験していない人に注目をしません。 

世界は勝利するために戦っていない人の声を聞きません。 

戦闘に参加したことがない兵士は、何のメリットがあるのでしょうか? 

パウロが言った: 

…わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。ガラテヤ人への手紙   6章17節 

 

患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣によってパウロに引き起こされた傷を彼の信仰が癒した。ローマ人への手紙   8章35節    

 

パウロの傷跡は、主イエスと共にいるならば、私たちが苦しんでいるすべてのものはいずれ過ぎ去るものであり、最終的にすべてを克服できるという証でした。 

賢い忍耐強い信仰に留まる者のために、今日の傷は明日の傷跡(証言)になるでしょう。 

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ダビデはエッサイの8番目の末っ子であり父親から軽蔑されていました。ダビデはまだ若く、大人である兄弟たちが戦争に行く間、羊を見張っていました。 

しかし、その若い男は信仰があり、父親の群れの羊を助けようと熊とライオンに打ち勝ったほどです。ダビデは知っていたのです。誰もイスラエルの神様に挑戦できないことを。(特に割礼を受けていない巨大なゴリアテ) 

 信仰は、視野と勇気が協力しあっているのです。したがって、ダビデはその巨人を倒した人に何が行われるのかと尋ねました。 

 次のことが約束されました。 

  1. 王が大いなる富を与えて富ませる
  2. 王の娘を与える
  3. その父の家にはイスラエルのうちで税を免れさせる

 これらのことを聞いた後、父と兄弟によって無視されてきたダビデの考えに何が起こったのか想像してみてください! 

 ダビデは自分の人生がどのようになるか想像していました。そしてダビデはイスラエルの神様が彼を捨てないことも知っていました。結局のところ、挑戦されたのは神御自身の名誉だったのです。 

 そして、欠けていたのは勇気だけでした。でも、ダビデには有り余るほどの勇気がありました。彼があの巨人を倒す為に鎧や剣を必要としませんでした。彼が必要としていたのは行動に移すための勇気だけだったのです。 

 自分の命が危険に侵されても、ダビデは誰を信じているか確信していました。 

 ダビデはまた言った、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。 

 サウル王はダビデを止める方法はありませんでした。 

 サウルはダビデに言った、「行きなさい。どうぞ主があなたと共におられるように」。サムエル記上   17章37節

その若い男は、川から5つの石を取ったが、実際には、ただ一つしか必要ではなかった。 

ダビデは石を投げましたが、それを巨人の額に向けたのは神御自身でした。 

その軽蔑された少年は結局、イスラエルの最も偉大な王のひとりになりました。 

ダビデによって使用されたその石(イエス様)は、すでにその川の中にあった。誰でもその石を巨人に投げれたかもしれません。 

 

若いダビデの信仰、視野と勇気はどこから来たのでしょうか? 

実は、その戦いの前にサムエルは彼に油を注ぎ、主の霊がダビデにあったのです。 

サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。サムエル記上   16章13節 

これが私たちに神様が御霊(聖霊様)を与える理由です。天使の言語を語るためや賛美することではなく、信仰、視野(想像力)と勇気によって必要な応じて行動に移すためのです。 

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したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。ローマ人への手紙   10章17節     

しかし、それをどのように行動に移すのでしょうか?それは、想像力にによってです。 

 

そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい(想像します)。そうすれば、そのとおりになるであろう。マルコによる福音書   11章24節     

 

多くの人が「信じている」と言いますが、想像力を軽視しています。よって信仰が落ちているのです。 

神様自身が、この力を明らかにしています。 

 

万軍の主は誓って言われる、「わたしが思ったよう(想像した通り)に必ず成り、わたしが定めたように必ず立つ。イザヤ書  14章24節 

 

人の人生の変化に必要な4つの要素があります。想像、信仰、勇気、そして… 

ですから、あなたは今まで聞いてきた御言葉や神様の約束が自分の人生に果たされたことを「想像」すれば、信仰が活性化され、勇気が生まれます。今、全ての違いを生む4番目の要素、すなわち「信仰の愚かさ」が現れます! 

 

注意して聞いてください。 

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。コリント人への第一の手紙   1章18節     

 

この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。コリント人への第一の手紙   1章21節     

 

最初の3つの要素(想像、信仰、勇気)と宣教の「愚か」さは「愚かな」信仰を生み出し、神様を喜ばせますが、この世界を不快にする「愚かな」ことです。 

 

この愚かな信仰は、不治の病を含むあらゆる病気の治癒を想像(見る)させるのを手伝います。私たちの友人や親戚の中で依存症から神様の力によって解放され、いと高き神の僕(しもべ)になって行くことなどを目にしてきました。 

 

では、悪魔があなたにユニバーサル教会に来ることを望んでいない理由を知っていますか。それは、あなたが「この世にとって愚かな信仰」を祭壇で現す勇気を持っている時、聖霊様があなたに神様は何が出来るのかを「考え」させ、「想像」させるように導いてしまうからなんです。 

 

この信仰によってダビデは巨人ゴリアテと戦ったのです。神様はただ、御自分の民の敵に恥を欠かせるために、仕える人を待っていたのです。全てが上手く行くために、まずダビデは巨人ゴリアテに勝つことを「想像」することが必要でした。 

この証拠はどこで見ることができますか? 

 

イスラエルの人々はまた言った、「あなたがたは、あの上ってきた人を見たか。確かにイスラエルにいどむために上ってきたのだ。(約束する)彼を殺す人は、王が大いなる富を与えて富ませ、その娘を与え、その父の家にはイスラエルのうちで税を免れさせるであろう」。 ダビデはかたわらに立っている人々に言った、「このペリシテびとを殺し、イスラエルの恥をすすぐ人には、どうされるのですか。この割礼なきペリシテびとは何者なので、生ける神の軍をいどむのか」。 民は前と同じように、「彼を殺す人にはこうされるであろう」と答えた。 サムエル記上 17章25-27節  

 

約束はとても大きかったので、ダビデが「想像する」ために、それを繰り返し尋ねました。この時、愚かな信仰がダビデの中に生まれた「全てか、何もない」。これが、ユニバーサル教会の根底にある信仰です。その結果、苦労と忍耐によってダビデの人生に約束が果たされ、人生の変化が起きました。 

この「愚かな」信仰が祭壇で現された時、私たちの人生の中でも神様が望んでいることを果たします。 

この世界に属する人々から賞賛を受けることを期待しないでください。なぜなら… 

生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。コリント人への第一の手紙   2章14節 

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イエス・キリストは神様の義です。イエス・キリストは、この世界を救うために、この地上に来られました。それは不義の霊から不義にあっている者を解放するため、罪を許すため、救いを与える為です。イエス・キリストは、神様の使命を果たしました。 
救われた者が意図的に不義である刑務所に戻るのは正しいのでしょうか?
神様の憐れみがこれを容認するのは正しいのでしょうか?
クリスチャンが神様の慈悲を乱用し、意図的に異教の慣習に戻るのは正しいのでしょうか? 
そうです、神様は愛です。
その愛は不義(不正、不当)を認めるのでしょうか?
この愛はこの世界の愛に似ていますか?家族関係や情熱的な恋愛に関する不義を気にしないと思いますか?
とんでもない! 
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。コリント人への第一の手紙   13章6節 
聖霊様はこのように言います。

いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。ヘブル人への手紙   6章4-6節 

 

彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。ペテロの第二の手紙   2章20-22節 

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信仰について話すとき、私たちはその源である「聖霊様」を決して忘れることはできません。私たちに勇気を呼び起こす賢い信仰を貸してくださったのは聖霊様です。信仰から聖霊様と勇気を引き離す事はできません。聖霊様は信仰を与えると同時に行動に移す勇気を与えます。 

 誰でも正しい考え方で信仰を使うことができます。しかし、それを行動に移す勇気がありません。 

多くの人は神様への信仰があり、祈ったり、断食をしたりします。そして、神様が自分たちの人生に魔法をかけ一瞬で変わることを望んでいます。したがって、そのような信者は信仰はありますが、信仰から信仰へと生きるのではなく、失敗から失敗へと生きています。しかし、それでも彼らは神の義をこのように堂々と請求するのです。「なぜ悪い者は繁栄し、不正な者は成功するのですか」。悪い人たちが繁栄し成功するのは、自分自身を信じ、悪い性格を認める勇気があるからです。 

神様の御霊(聖霊様)によって与えられた信仰は、神様の権威と力であり、神様の子らが行動に移すためのものです!  

もし神様の御霊(聖霊様)が私たちにその力を与えるならば、それを行動に移すためです。神様が使用するなら、私たちには準備しません。そして、私たちに信仰(神様の力)を与えたなら、私たちが信仰を使用することを期待していることは明らかです。 

しかし、どのように信仰を使用しますか?
神様の御心(望み)をどのように実現しますか? 

聖霊自身が私たちに、信仰をどのように使用するのかを教えています。 

 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら(行動に移さないなら)、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。ヤコブの手紙 2章14節   

言い換えれば:
私の言葉を信じ、それに従う勇気がないなら何の意味があるのでしょうか? 

真の信仰、つまり私たちの人生の中にある信仰は、私たちに勇気ある行動を起こさせます。そして、このの勇気はこの世にとって愚かなことです。 

どんなに大きな信仰を持っていても行動に移す勇気が無いならば、何の役にも立ちません。
それは同時に信仰と恐怖(疑い)を持つようなものです! 

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人類の歴史を通して、神様を恐れるけれど、神様の正義に疑問視する人々がいました。なぜ良い人たちが悲惨な人生を過ごしているのに、悪い人たちは金持ちになるのですか? なぜ正直な人は貧しく、不正直な人は成功するのですか? 預言者エレミヤまでもこのように尋ねました。 

主よ、わたしがあなたと論じ争う時、あなたは常に正しい。しかしなお、わたしはあなたの前に、さばきのことを論じてみたい。悪人の道がさかえ、不信実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか。 あなたが彼らを植えられたので、彼らは根づき、育って、実を結びます。彼らは口ではあなたに近づきますが、心はあなたから遠ざかっています。 主よ、あなたはわたしを知り、わたしを見、わたしの心があなたに対していかにあるかを試みられます。
主は彼に答えました。 

エレミヤ、もしあなたが、徒歩の人と競争して疲れるなら、どうして騎馬の人と競うことができようか。エレミヤ書   12章1-5節

言い換えれば、エレミヤよ、なぜあなたは豊かな人々の悲惨な人生を心配しているのですか? 

あなたが私(神)をパートナーとして受け入れるなら、父と結ばれているのではありませんか?
なぜ、あなたは私(神)の偉大さと栄光の視野を無視し、焦点をそらし下を見るのですか?
なぜあなたは、ワシのの翼を持っているときに、徒歩でレースしている人に希望を置くのですか?
実際に、神様の人々が小さくて些細なことに信仰を集中させている限り、大いなるものに投資する十分な信仰(勇気)を発揮することは決してありません。あなたはどのように全能者を誠実に信じることができますか?また同時に小さなものを信じることができますか?これは、大多数のクリスチャンの間違いです。そしてその結果として、彼らは邪悪と不正の富を羨み悲惨な状態に陥ってしまいます。彼らは、自分たちの条件が無限大で優れているのに、不信仰の人々と競争したがっているのです
問題は、彼らが「ワシの信仰の翼」を拒みスニーカーで走ろうとしていることです。 

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すべての歴史において、正しいことに背を向け、自分自身のプライドによって打ち勝って来た人々がいます。そして、自分たちが完璧ではないと分かっているにも関わらず、自分が完璧だと考え、自分自身を清める必要性を拒みました。

もし、人々が自分を清めることのメリットを理解すれば!  

では知らない人たちの為に説明します。 

清めることによって、あなたの人生から悪魔の支配と迫害が取り除かれます。 

私たちが永遠の命に入る為に、この人生を離れるとき、悪魔は、責めることが出来る所でしか働きません。もし、あなたは悪魔に責められることがなければ、悪魔は殺すことも、盗むことも、そして滅ぼすことも出来ません! 

しかし、これを読んで自分自身は清める必要がないと思っている場合、以下の文章を読んで下さい。

どうして、人が清くありえよう。どうして、女から生まれた者が/正しくありえよう。 神は聖なる人々をも信頼なさらず/天すら、神の目には清くない。 まして人間は、水を飲むように不正を飲む者/憎むべき汚れた者なのだ。 ヨブ記   15章14-16節 

神様が皆様を大いに祝福されますように。 

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人の人生で地獄が現れている最大の特徴は不義(不正・不当)です。なぜなら不義が存在するところには悪魔がいるからです。そして人が感じる最悪の痛みです。罪は霊であり、不義を犯した者の命を殺し、不義をされた者の命を奪うのです。 

 神様の御座の根底が正義であるように、悪魔の御座の根底は不義(不正・不当)です。したがって、パウロを通して聖霊様は次のように述べています。 

 では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。ローマ人への手紙   9章14節 

 不義(不正・不当)の霊を克服されるために使われる武器は何でもいいという訳ではありません。だから、主イエス様は裁かれるべき理由がある未亡人の道で、どの武器を使うべきかを示しています。しかし、彼女の唯一の問題は、彼女の事件を判断する裁判官が不正者であったということです。それでも、彼女の忍耐のお陰で正義が果たされたのです。 

 不義を行う裁判官が未亡人の依頼を聞いたのならば、正義の裁判官、神様はどうすると思いますか? 

 不義の霊は、信仰を表すときのみ追い払われます。信仰を使わなければ正義はありません!

しかし、あの未亡人の場合、弁護士がいなかったことを思い出して下さい。今現在、不当な扱いを受けている人のために、主イエス様が弁護士となり、どのようなケースであっても負けることはありません。そして、神様は正しい裁判官であり、すぐに正義を行います。

神様があなたを祝福するように! 

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イエス様が通るとき、生まれた付き目が見えない盲人をみて[…] 土に唾を吐き、その唾で泥を作り盲人の目に泥を塗った。 

そして、こ言われました。 

イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、 「シロアム(つかわされた者の意味)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。ヨハネによる福音書   9章6,7節 

謙虚な人を助けることは、とても簡単です。なぜなら言われることに対し質問や文句を言わずに従うからです。その盲人の状況を想像してみてください。彼はイエス様まで来て、見えることを求める。イエス様は地面に唾を吐き、泥を作り、盲目の人の目に塗ります。 

プライドの高い人が、この状況を見たら何を思うのか想像して見ましょう。 

1 – なんて不潔なんでしょう。目が見えない人の目に唾を塗るなんて、目が見えない人だからそんなことをするんだ。
2 – 盲人に対し酷いことするんだね。その場で癒せるのに遠くの池まで歩かせるなんて!
3 – 彼はすでに盲目であり、彼の目に泥を塗るなんて、それは悪意だ! 

ご覧の通り、プライドの高い人を助けることはとても大変なのです。しかし、プライドが高い人は自分がプライドが高いとは決して認めません。そして「私はただ自分の意見を言っている」と言います。 

 それに比べて、謙虚な人を助け重んじることはとても簡単です。
あの盲人は、質問や文句を一切言わず、池に連れて行く為に助けを求めなかった、イエス様が目に何を塗っているのかも尋ねなかった。要するに、彼は従っただけで、癒されたのです。
謙虚なものは土地を受け継ぎます。これは主イエスが言われた言葉です。
謙虚な思いで、忍耐とともに従ってください。そうすれば、あなたの人生に神様の栄光を見ることができます。 

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ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。 使徒言行録 1章 18節

イスカリオテのユダは悲劇に終わりました。ユダは12人の使徒(弟子)の1人で主イエスと共に歩み、奇跡を見て、教えを聞いてきましたが、それだけでは不十分でした。なぜならユダの心は救い主と遠く離れていたからです。これは、教会に通い神様の御言葉に耳を傾けたとしても、教会の役人(牧師、伝道師)になったとしても、教会での行いごとを果たしたとしても、実際に主イエスから命(救い)を与えられたことを意味するのではありません。 

ユダの中にあった貪欲により彼は恥ずべき罪深い行いをしました。これがキリストの体からユダを離れさせたのです。 

主人を敵に渡し、その報酬として受け取ったお金で、野原を買いその場所で自殺し、その土地は墓地になった。自分の主の人生を犠牲にした不正な成果です。 

不正な行いによって儲けたお金はユダを滅亡に導きました。この節では彼の悲劇的な終わりが報告されています。 

歴史家によれば、ユダが首吊りに使用したロープがちぎれたか、または木の枝が折れ、彼の体が崖の上に墜落して腸が露出したと述べています。これは、神様が私たちの最も奥深くにあるものを知っていることを意味し、いつかはすべてが表に出される(明らかにされる)ことを表します。 

全ての人間には欲望があります。しかし、その欲望を達成するために進んで何をしているのかが問題です。 

心の中に悪意、邪悪な意図、虚偽と利己主義があるとき、間違いなくその人は神様に服従していません。神様は正義であり、罪や不義に関わることは悪魔からくるものです。 

したがって、嘘をついたり、騙したり、賄賂、裏切り、人を踏みつけて利益を求めるような人々は、ユダと同じ終わり方を避けることはできず、彼らは神様にとって不義と罪によって死んだ者と同然なのです。 

 違法によって得る利益はすべて罪から来て良心を汚すので、罪の報酬を受けます。 

その罪に対して拒絶しないで戦われなかった時の罪の結果をはっきりと現れます。そして、その罪を飲み込んでしまうと悪い果実が自由自在に成ります。 

ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。使徒行伝   1章25節 

その人自身が真実の道から落ちることを決めたのです。サタンはユダに悪と密接な関係があることを見つけました。そして、ユダの意図は純粋で真実ではなかったので、悔い改めの場はありませんでした。 

親愛なる読者様、御言葉に基づいて正しい行動することを自分自身で判断して行うものです。もし、自分の行動、思考、感情に不純なものがあるならば、今日から正義の道を歩むことを決めてください。そして不義を捨て、救いの賞を受け取ってください。 

 よく注意して、わたしたちの働いて得た成果を失うことがなく、豊かな報いを受けられるようにしなさい。 ヨハネの第二の手紙   1章8節

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だれがこの事について、あなたがたに聞き従いますか。戦いに下って行った者の分け前と、荷物のかたわらにとどまっていた者の分け前を同様にしなければならない。彼らはひとしく分け前を受けるべきである」。サムエル記上   30章24節 

ダビデは敵に奪われたすべてのものを救い出すという大きな役目がありました。
ダビデには600人の兵がいて、そのうちの200人は身体的に疲れていた為、彼らは荷物の世話をする責任がありました。剣を取った400人の負荷を和らげるために。

全てが終わった時、剣を持っていた人の中で、荷物を世話していた者たちが同じ報酬を楽しむべきではないと思っていた人もいました。しかし、ダビデはこの偉大な業績の中でみんなが大切であることを示しました。

神様の働きも同じです。

ある者は剣を取り、ある者は荷物係、責任の違いに関係なく全員が大事な役割をしているのです。

実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。コリント人への第一の手紙   12章14節 

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詐欺などによって奪った財産は呪われた富で、その財産を相続する者も呪われてしまいます。 そして、呪いを受け継いだ者は、経済面、健康面、感情的な面、結婚生活や家族全てに影響を及ぼします。 
どんなにお金や財産があっても、その呪いからは逃れることはできません。なぜなら、それは罪の中で生きている人々を支配する悪霊だからです。神様との契約を結び、神様の言葉を従うことだけが、その呪いから解放される唯一の方法です。
財産や物質など悪との関わりがあるなら、あなたの人生は呪いの霊によって支配されてしまいます。預言者によって預言されたように:

わざわいなるかな、災の手を免れるために高い所に巣を構えようと、おのが家のために不義の利を取る者よ。ハバクク書   2章9節 

あの金持ちは、お金を沢山儲けた後に自分自身に言いました。

そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。

すると神が彼に言われた、

『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。ルカによる福音書   12章19,20節 

確かに、どんなに財産が沢山あっても不当に儲けたお金ならば、呪われたものとなります。そして、その呪いはその人とその人の家族の中で永遠にすべての世代に受け継がれていきます。
それはアダムとエバによって生み出された罪の影響であり、以来すべての世代に死をもたらしてきました。
呪いの霊は罪、不義、神の言葉に反抗する霊です。しかし、祝福の霊は正義、服従、聖書の御言葉への従順の霊です。全ての悪から守られ祝福を保証します。 

 鳥は渡って行くもの、つばめは飛び去るもの。理由のない呪いが襲うことはない。 箴言  26章2節 

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彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、 使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。 クプロ生れのレビ人で、使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)と呼ばれていたヨセフは、 自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。使徒行伝   4章34-37節    

 

ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、 共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。使徒行伝   5章1,2節   

「使徒たちの足元に」、教会全体が人生において最も重要な人物を証明しました。
主イエス様を1番とした人々は何一つ欠けるものはありませんでした。バルナバは救いをもたらすために聖霊様によって非常に使われましたが、アナニヤとサッピラは残念ながら救い無しに死んでしまったのです。 供えた足元は同じだったが、優先順位が異なっていたのです。 
私たちの人生は私たちが何を優先しているかの結果です。そして、主イエス様が最初であると言う人もいますが、祭壇に示されている人生を通じて、それは嘘であることが示されます。 
もしも、自分の中に何かが保たれ、取り上げられないものなどが存在するならば、神様は1番ではありません。何故なら私たちの全てを、私たちの全てに、でなければならないからです。
「使徒の足元」がすべての人に利用可能であったように祭壇も全ての人々が利用できます。
祭壇は今までと変わらず、同じであり続けていますが人々の優先順位が異なっているのです。

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見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。イザヤ書   43章19節 

 

私たちは全能な神様の偉大さを考えると、素晴らしい天と地、この世の見えるものと見えないもの、すべてを創造された神様の働きが思い浮かびます。そして、これ以上に何かを創造することは可能なのかと疑問に思います。 

 

神様自身が答えます。『わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る』 

 

これが何を意味するか分かりますか?永遠なる創造主は未でも働き続けているのです!全ての初めに水の上を漂っていた御霊と同じ御霊は、全能者の言葉を実行するため、今も完全な活動を続けています。 

 

あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。イザヤ書   40章28節     

 

その通りです!神様は疲れることを知りません。神様は実際に真実を信じる人たちの声に耳を傾け、神様の声に耳を傾ける人たちの生活の中でもっと多くを成し遂げたいと考えています。 

聖霊様は、いろんな不義と失望に苦しんでいる人々を強め、力のない人たちの力になります。 

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その信仰によって、自分が持っている才能を発揮する力、行動に移す勇気を持つことが出来ます。だから、あなたの中にある信仰をもたらす言葉を受け取るために教会に行く必要があります。 

 

あなたの人生が神様の御言葉に基づいているならば、他人の意見は重要でなくなり、重要なことは自分が何を信じているかです! 

 

兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。ピリピ人への手紙   3章13,14節 

 

使徒パウロは聖霊様によって過去に焦点を当てないようにと教えています。あなたが信仰を使っているときは前をみてください。あなたが過去を思い出し始めると、信仰の力が弱くなります。これは毒と同じ働きであり危険です!あなたが過去にとどまっているのであれば、どんなにイエス様を信じ、教会に行ったとしても役に立ちません。あなたが過去を振り返っているなら、前進することは出来ません。このような状態に留まり、多くのクリスチャンが命を落としています。 

 

信仰の秘訣は前を見る事です。今、起きている問題に焦点を当てないでください。それは信仰を妨げ、無力にさせ、あなたの人生に働く神様の力を妨げます。 

 

信仰は、神様から私たちに来る力です。この力は私たちの中で実現され、わたしたちが信仰を使っているとき、私たちは光を放つので悪魔は離れていきます。 

 

イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。ヨハネによる福音書   8章12節     

 

あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。マタイによる福音書   5章14節 

 

神様の力があなたの中にあると信じてください。そうすれば、あなたの周りのすべてを照らします。信仰とは、この物理的世界、人、状況や問題に頼るのではなく、神様に頼ることです。信仰を持つことによって、私たちの思考は未来へとつながり、前へと進むことが出来るのです。あなたの夢を考えてみてください。あなたは何をしたいですか?あなたは神様から何を望みますか? 

過去の記事

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また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。ヨハネによる福音書   17章19節

聖霊様を受け取ったときに、人間の感情の1つである自己中心さ(身勝手さ)が直ちに失われます。これは、私たちが神様の人格(聖霊様)で洗礼(バプテスマ)を受けるとき、私たちは神様と同じ性質を持ちます。そして、神様の性格には絶対に自己中心さ(身勝手さ)というものはありません。
なんども、聖霊様を受けたことを伝える人々たちの反応を目の当たりにしました。聖霊様を受けた人たちは神様がどれだけ素晴らしいのか、また、あなたも聖霊様を受ける事が可能だとみんなに伝えたいという欲望を持っています。もちろん、それは聖霊様を受けた者が感じる自然な現象です。そしてすぐに、神様への降伏、信仰、多くの犠牲の道を歩み始めるのです。
しかし、神様の御霊で証印された新しいものの知識から少し隠されているのは、この出来事が自分自身だけでなく人類のためにも大きな責任を負うということです。新しく洗礼(バプテスマ)を受けた人は、自分自身の中に神様の全てを受け取り、その時からあなたがその権力で何を行うのかを、人間の目では見えない見物人がたくさん現れます。天使、悪魔、天と地獄は、地球上の新しい神様の代表者に注目するでしょう。
主イエス・キリストからこのような信頼を受けた責任はとても重要です。したがって、本当の戦いがそこから始まります。しかし、この戦いは今までとは違い恐れをもたらさないのです。この戦いは私たちを聖別し、バプテスマを受ける前の普通の人生と自己的な生活からさらに離れさせます。自分自身を聖なるものにするための日々の闘いは、もはや自分自身のためだけではなく、つまり、救いそのものを維持するためだけではありません。 
聖霊様は私たちに、自分たちだけのためでなく、神様によって私たちに委ねられたすべての民のために、また苦しんでいる人々のために、聖別の中で生きなければならないと教えています。そして、自分を聖別することによって、私たちは他人を聖別することができます。このようにして、私たちが救うために行うすべてのことが、私たちを長続きする永続的な効果をもたらすのです。 
もしあなたは聖霊様でバプテスマを受けいるならば、あなたの人生は決して同じような人生では無く、他人の人生の責任を持っていることも理解しています。あなたは、他の人を聖別するために、まず自分を日々聖別する必要があることを理解しています。聖別することによって自分たちの日々の欲望を消すことができるのです。聖別は私たちの力を倍増させ、私たちを他の人に力をもたらすように促します。

 

*聖別:人あるいは物が日常的な使用から区別されて,永久に神に仕えるために奉献されることをいう。 

過去の記事

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聖霊様は、水と御霊から生まれた、神様の真の子たちの内の果てしない栄光なのです。
パウロがどのように思っていたのか書かれています。

しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。コリント人への第二の手紙   4章7節 

しかし、ずっとそのように思っていたのではありませんでした。
アダムとエバの時代から、イエス様が使徒たちに聖霊様が注がれるその日まで、神様の子は存在しませんでした。使徒たちはイエス様を信じていましたが、聖霊様が注がれることによって生まれ変わったのです。これが霊から生まれたことになります。 
アダムとエバは神様によって創造されたものであり、神様から生まれた訳ではありません。 
聖書の中の家長、司祭、預言者、使徒、または信仰の英雄は、主イエスと個人的な経験をしましたが、聖霊様を受け取るまでは神様の子として栄光されませんでした。 

イエス・キリストはマリアの胎内から聖霊様によって生まれたのです。
聖霊様が来られた後から、真の神様の子たちの世代が始まったのです。
自分に与えられた救いの確信が聖霊様によって私たちの霊に証明してくれ、神様の栄光を子達に示しています。 

イエス様は使徒(僕)たちがどんなに服従していたとしても聖霊様を受けない限り信頼出来ませんでした。
彼たちは、イエス様の友人とみなされ、神の子とはみなされていなかったのです。 

わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。ヨハネによる福音書   15章15    

神様の子の立場は、天使の立場よりも尊敬されています。なぜなら天使たちも、アダムとイブのように、神から生まれたものでなく創造されたものだからです。 
したがって、使徒たちが語った輝かしい召命(召命とは神の恵みによって神に呼び出されること)は、まさに神の子であるという条件であり、一人一人が宝のように守らなければなりません。
次の節を宿題としてチェックし、瞑想し、コメントしてください。

兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。  コリント人への第一の手紙   1章26節   

 

各自は、召されたままの状態にとどまっているべきである。コリント人への第一の手紙   7章20節 

 

さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。エペソ人への手紙   4章1-4 節   

 

目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 ピリピ人への手紙   3章14節    

 

このためにまた、わたしたちは、わたしたちの神があなたがたを召しにかなう者となし、善に対するあらゆる願いと信仰の働きとを力強く満たして下さるようにと、あなたがたのために絶えず祈っている。テサロニケ人への第二の手紙   1章11節 

 

神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、テモテヘの第二の手紙   1章9節

 

そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。ヘブル人への手紙   3章1節    

 

兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。ペテロの第二の手紙 1章10節 

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子供は両親の夫婦関係から生まれます。それが自然であり、彼らは自然の法則に従います。しかし、神様の子供たちは自然の法則から生まれません。むしろ、彼らは聖霊様と協力して主イエスへの信仰によって生まれます。 

イエス様を信じていても、聖霊様との経験がないならば十分ではありません。 
例えば、人はこの文章を読むことは出来ますが、伝えていることを理解することが出来ません。なぜなら霊的な理解力は霊によらなければ分からないからです。 
この霊的になる為には、聖霊様が直接関わることによってのみ可能です。その他の方法で霊的な物事を理解することは出来ません。 
同じように、イエス様を主であり救い主として受け入れることにも当てはまります。聖霊様に触れられなければ、神様から生まれる事が出来ません。 
神様の子が生まれる為には、人、主イエスと聖霊様の三角関係が必要なのです。 
イエス様が自分の人生の主だと認識し、自分の全ての罪を止める時、イエス様が十字架で流された血によって洗い流されます。 
一度清められると、聖霊様はあなたの中に宿り、あなたを神様の神殿にします。その日から、新しい人として造りかえられ新たな人生を歩み始めます。 
あなたの考え、思い、心、視野、全てが変わるのです。あなたの考え方と行動が変わることによって、前とは完全に異なった歩み方になるのです。 
いろんな、自分へのマイナスなコンプレックスやトラウマ、誰かへの恨み、憎しみは煙のように跡を残さず消えます。神様と同じ性格を持ち、新しい人へと生まれ変わるのです。 

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しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。ヨハネによる福音書   4章23節 

知らないお方をどのようにして礼拝する事が出来ますか?そして、それが神様の霊の礼拝であれば、礼拝することは不可能です。もし、神様の霊でなかったとしても、まず神様を知ってから礼拝する必要があります。しかし、霊を知る為には、出会いたいと言う気持ちをイエス様が言われたように全力で表現する必要があります。 

あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、エレミヤ書   29章13節 

それは、神様の霊(聖霊様)と出会いたいという誠実な現れです。そして、神様の霊(聖霊様)自ら関心がある人に主イエス・キリストを明かしてくれるのです。 

宗教的な行動、聖書への知識、神学校や神学だけでは本当の神様を知り、礼拝することは出来ません。その未知の神様を心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くし求めなければなりません。それは必ずしも教会や宗教である必要はありません。要するに場所やあなたの状態は何も関係がないのです。ただ、未知の神様を礼拝するために、あなたは膝を曲げ、何も妨げがない場所であるなら、神様はあなたの元へ来るのに十分なのです。 

イエス様からのアドバイスです。 

私たちは神様の前まで行く条件を持っていません。この世界に限られているように、私達は霊と真実、無限に到達することは出来ません。神様だけが私たちまで来て、その存在を明かす事ができるのです。しかし、それを可能にする為には、一人一人が神様との出会いたいと心から何よりも求める必要があります。 

この理由から、主イエスは父の御座へ(神様)の道を求める人々に教えました。 

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。マタイによる福音書   5章6節   

神様の本質は正義であるため、正義に飢えて渇いている者だけに神様の御霊が訪れ、その御霊によって生きた神、主イエス・キリストに示すことができます。 

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同じ家庭の兄弟が争うのは普通に見かけます。しかし、同じ信仰の兄弟が常に噛み合うことは、普通ではありません。そのような事が起こるのは、彼らが神の者ではないからです。
聖霊様から生まれた者は、神様の性格を持っています。キリストの考え、父(神様)の言葉に従う新しい心、誠実な行動、敬意ある言葉など。これは、神様の御霊から生まれていない者の性格とは完全に対照的です。

神様から生まれた人が、自分が交わした約束を守らないなんてありえません!例えば、主イエスは、神様によって作られた結婚を滅ぼすことはできないと教えている通り、天の父の栄光は神様の言葉の成就にあります。神様の子も同じであり、約束された神様の御言葉を尊敬します。本当の神様の子たちの言葉は、自分の思いよりも価値があります。
神様から生まれた者は、神様のDNAが性格にあります。
現代、性格について話をすることは風の中に種を蒔くのと同じようなことです。しかし、永遠の救いを受け継ぎたい者にとっては、クリスチャンの信仰を唱えても、神様の御言葉に反し行動するなら全く役に立ちません。

イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。  ヨハネによる福音書   8章31節

弟子とは、ただ唱えたり、実感する人ではなく、あなたの主人の言葉を実行に移し、守り、従うことです。 

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誰かが神様の怒りについて話すのはほとんどありません。特に私は怒りについての説教を聞いたことがありません。

教会で神様の怒りは怖がられているテーマです。教会のメンバーを失ないたくないが故に牧師たちは、このテーマに触れようとしません。 
神様の慈愛、愛、恵みは常に説教の議題に入っています。これらはすべての信者を満足させる魅力的なテーマです。
それらは、誰も地獄を気にしません。

それよりも、最終的に父なる神様がすべての人に門を開いてくれるという思いを引き起こしています。

神様の御言葉には神様が愛だと記載されている以上、神様の怒りを想像することは難しいです。ヨハネの手紙第1  4章8-16節 
しかし、神様は愛であり、正義でもあり、絶対に不平や罪などを受け入れません。
真実を知り、信じながらも、嘘をつく人は信仰をもて遊んでいるのです。
イスラエルは、宗教的伝統の遵守によって彼らの罪を償えると信じて、愚かな考えによって主を怒らせました。 
しかし、これは多くの信者の中で起こったことです。 彼らは神様の愛と恵みが彼らの罪深い性質を取り消すと考えています。
この事実を忘れているのです。 

あなたはかつて、『主は怒ることおそく、いつくしみに富み、罪ととがをゆるす者、しかし、罰すべき者は、決してゆるさず、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼす者である』と言われました。民数記   14章18節 

誰も罪を留める為に、神様の慈悲や思いやりを当てにしないでください。なぜなら、反抗的な人々に神様の怒りが明らかにされるからです。 

あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。エペソ人への手紙   5章6節

皆様がイエスキリストの御名によって祝福されますように。 

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律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実*はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。   マタイによる福音書   23章23節 

(*ポルトガル語、英語の聖書では、正義、憐れみ、信仰と書かれています。)   

多くの人たちは、牧師たちに言われた通り、全てのことを行います。例えば; 10分の1や供え物、伝道活動、集会に忠実に参加するなどいろいろです。しかし、このような人たちは神様の御言葉を理解せず、省き、不正な行為、盗み、嘘を付いて、お互いを裏切るのです。

イエス様は、パリサイ人達がみんなに宣べ伝えていることとは違った行動をしていたので叱責(しっせき)しました。パリサイ人達は10分の1や供え物を神殿に捧げていましたが、神様の律法を守らず行動に移していませんでした。それどころか、パリサイ人達は最も重要な戒めを無視していたのです。

正義 – 正義は神様を表します。しかしながら『偽クリスチャン』は神様が正義であることを気にしていません。偽クリスチャンは神様を恐れず、自分の意思を否定することもなく、神様の僕を傷つけ、批判的で嫉妬深い言葉で相手を殺し、裁くことを好みます。そのため、聖霊様から偽クリスチャンは離れさせられています。

憐れみ – 神様を信じるすべての人々を救うためにイエス様の命を与えたイエス様によって表されるものです。憐れみを持つことは必要です。なぜなら、このことを否定する者には、神様の目的を知らずに暗闇で苦しんでいる人々の魂への憐れみがないからです。

信仰 – 聖霊を表すものです。また、信仰はみんなに与えらるものであり、特に聖霊様を信じる者に与えられます。信仰がない者は、聖霊様が一人一人に与えた力を活かす事ができません。したがって、神様の力がない為に人々は、信仰を発揮することが出来ずに、人生の中で痛い思いをしてしまうのです。

イエス様はガリラヤで忍耐を持ちこのような事を芝生の上で教えていました。 

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。  マタイによる福音書   5章6-8節   

イエス様がこの地上に人として来る何百年も前に神様は次のように言われました。 

主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。ヨブ記   1章8節  

この日以降、神様は私たちが正義、憐れみ、信仰の三つを得られるように御自身の御心を表し続けています。つまり、私たちの中にその特徴がないといけません。 

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自然を超えた信仰は犠牲を叫ぶ。
犠牲とは神様の御言葉に従うこと 

従うとは、肉欲を拒み、聖霊に賛成すること 

犠牲とは、心の声を拒み、良心に賛成すること
犠牲とは、迫害する者の為に祈ること
犠牲とは、私たちを嫌う者を愛すること
犠牲とは、この不平な社会の中で正義を行うこと
犠牲とは、支払うべき税金を支払い、その利益を享受しないこと
犠牲とは、不平を我慢して神様の正義を信頼すること
犠牲とは、悪い者が正しい者を支配しているのを見ること
犠牲とは、悪い者を良い目で見ること
犠牲とは、赦される為に、赦すこと
犠牲とは、この世で死に、イエス様の為に生きること
犠牲とは、本当は怒りたいけど… 我慢しもう一方の頰を相手に与えること 

犠牲とは、1km歩けと強制されたなら、その倍に歩くこと
犠牲とは、1番になるため、全員に仕えること
犠牲とは、イエス様への信仰によって自分の欲望を捨て、福音によって永遠の救いを得ること 
犠牲とは、アブラハムのように従い、祭壇に自分の人生を委ねること
最終的にイエス様について行きたいのなら、自分を犠牲にする必要があります。
それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。ルカによる福音書   9章23節 

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全ての文章には、その作者の霊が込められています。
ダビデが書かれた詩篇の中では、ダビデを導く御霊を見ることができます。それは、いと高き神様の聖霊様です。
この為、宗教に関わらず、誰でも詩篇の中で自分の必要を満たす言葉をいつも見つけることができます。 

アブラハムの神様は、今も神様の声に耳を傾ける人に語り続けています。しかし、詩篇を読まれる時に最も重要なのは、その詩の慰めを感じるのではなく、そこに教えられていることを観察すること、従うこと、行動することです。
そうでなければ、その慰め感がなくなり、絶望が再び襲うでしょう。
悪い行いをして、繁栄する人たちの人生を羨ましがったり観察することで、あなたの時間を無駄にしないで下さい。それよりも、あなたの人生を世話をしてください。
神様の霊である聖霊様の教えに気を配れば、聖霊様があなたの必要なことに応じて答えてくれます。

種が土に蒔かれたと同じように、聖霊様の教えをすぐに行動に移して下さい。必ずその種から芽が出て実を結ぶでしょう。

悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。 彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。 主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。 主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、 あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。詩篇  37:1-6 

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アブラハムは、神様に聞きました。もし、その町に50人か、それ以下の正しい者がいたら、その町を滅ぼしますかと。神様は正しい者の人数に限らないで、彼らを愛する思いによって、滅ぼさないと答えられました。
 

その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」   創世記   18章22-25節 

ここでは、アブラハムが正しい者の前に神様の義を思い起こさせるために、神様に質問したことは明らかです。つまり、神様が約束した、正しい者と悪い者との間に存在する違いについて、アブラハムが神様に思い出させているのを見ることができます。 
しかし、私はここで再び25節を強調したいと思います。 

正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。 
各州および各国には、独自の裁判官がいます。例えば、ブラジルや、イギリスなど。しかし、ブラジルの裁判官が米国に行く場合、彼はそこに行って事件を裁判することはできません。米国の裁判官がアフリカに行く場合も同様です。他国で彼らは事件を裁判する権限を持っていません。 
しかし、神様はそうではありません。アブラハムは言った。地球上全ての正義の裁判官は正義をしないのだろうか?神様は地球上全ての裁判官です!
質問します。あなたは神様がある国から別の国へと移動されたとき力を失うと思いますか?答えを言います。いいえ、力を失うことはありません!神様は地球上全ての唯一の裁判官ですから。 
9月17日に祭壇の上にいるのはこの裁判官であり、神様はあなたが滅ぼされることを許さないでしょう。
その聖なる裁判官は言いました。 

たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。詩篇   91:7    

だから、アブラハムは正しい者の救いのため、勇敢で大胆で野心的な信仰を使って神に尋ねました。彼らの正しい者の50人、40人、30人、20人あるいは1人だけでも救われるのかを神様に尋ねたのです。 
その信仰を生きている皆さんは、その正しい者の中に入っているのでしょうか。
あなたは病人生活をして居てはいけません。失業者の列に居てはなりません。ホームレスの輪に居てはなりません。離婚をしている人たちの列に並んで居てはいけません。刑務所で子供の面会待ちの列に居てはいけません。他人の支援を待つ列に居てはいけません。 
なぜ、そのような状態に居てはいけないのか?もう一度言います。なぜなら、あなたは神様が言われた正しい者、守られる者だからです。 

この詩篇 91:7に記載されているように、神様は正義を行う者を滅ぼさないと言われました。そこであなたに言います。神様はあなたを愛しているのであなたが滅び、不信仰の者たちと共に苦しみ地獄に行かせることはしません。あなたの行くべき場所は天国です。あなたがイエス様を信じているにも関わらず地獄に行くことは、間違っています。 したがって、この正義のキャンペーンは、あなたの人生すべてにおいて正義が行われる為のキャンペーンです。
私があなたに聞きたいことは、全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか?
神様は天から降ります。 

何処へ降りるか?それは、祭壇です! 

わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。創世記   18章21節

神様が祭壇へ降りた時、私たちの人生に正義が行われるためには、まず私たちは神様に正しい行いをしていることを見せる必要があります。そうすれば、神様の正義があなたの人生に果たされます。 

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神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者  よこしまな者から救ってください。あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ  嘆きつつ行き来するのか。 あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き 聖なる山、あなたのいますところに わたしを伴ってくれるでしょう。 神の祭壇にわたしは近づき わたしの神を喜び祝い 琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。詩篇   43:1-4   

ダビデは、自分自身に害を与えた人に対して正義を求めましたが、ダビデは神様に助けを求める為にむなしい叫び声を上げるだけでは満足しませんでした。ダビデは、自分が取らなければいけないことを理解しており、正義が果たされるためには祈りや願い以上のものが必要であることを認識していました。ここで生きた堅実的な信仰を使用することが必要になります。だから、ダビデは祭壇に行くと言った理由であり、それがダビデの喜びの源であったということです。

多くの人は正義を求めていますが、祭壇から逃げています。なぜなら、祭壇は喜びの源ではなく、重荷だからです。そして、彼らは決して正義が行われることを自分の人生に見ることはありません。それどころか、誰にも守られずに、屈辱を受けています。神様の正義は信仰によってのみ果たされます。信仰は祭壇の外には存在しません。 

神様から今以上に祝福されますように! 

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9.7

1970年代にアンデス地方で墜落した飛行機の45人の乗客のうち16人が、人間の肉を食べたことによって生き残りました。生き残った人々は人間の肉を食べたいと望んでいませんでしたが、とにかく飢えていたので制限がなかったのです。人は飢えを満たす為だったら何でも必要なことをします。

イエス様は言われました。

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。マタイによる福音書   5章6節

正義を求めて渇いている人を特徴付けるものは、何をしなければならないかに関わらず、神様の声に従うことです。行いたい事でも、行いたくない事でも、それを実行に移すために、誰かを後回しにしたり、何かを捨てなければならなかったり、他の人に批判されても、自分がしなければならい事をします。正義に飢えてる人は、他の人にどう思われるかを気にしません。飢えは個人的であり、誰も私のために食べず、私も誰のためにも食べないので、他人の意見を聞いて時間を無駄にしません。
聖書には、飢えている者と宗教的な者の違いを示す2人の人物が存在します。
金持ちの若い男は、財産が多く、戒めを守っていたが何かが欠けていることを知っていました。それを、どうしても満たす事が出来なかったのです。イエス様は問題が何であるのかを正確に知っていたので、若い男に犠牲をするように命じました。しかし彼は、飢えていなかった為、悲しんで帰りました。彼は従う力がありませんでした。宗教的な人間はやらないといけな事を知っているけど、飢えていない為、感情と言い訳が出てくるのです。
ザカイは、人々によく思われていませんでした。背の低い泥棒で、税金を徴収する仕事をしていましたが、ザカイは飢えていたので、イエス様を見るために木に登りました。そしてイエス様に呼ばれた時、素早く木から降りました。飢えている人は出遅れません(素早く行動に出す)。飢えは、待つ事や言い訳を受け入れません。
主イエスは何をすべきかを教えたり、指示を与える必要はありませんでした。なぜなら、ザカイは自分が何をしなければいけないのか知っていたからです。また、神様との関係を修正することを決めました。考える時間や家族と相談する時間は必要ありませんでした。ザカイは、飢えていたので、全てのことが素早く起きました。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた。」と言われました。ザカイは今までに無いくらいに満たされました。
人が宗教的であるとき、天の王国の規律に従って生きる力がありません。たとえ従って、全てに対し善意を行なったとしても、確実に何かがいつも欠けています。
人が正義(神)に飢えで渇いたとき、行動に移す力があります。正しい決断を下し、自分の足で歩き、正しく無いものを捨てる事が出来ます。例えば、罪や自分を満たす妨げになっている物や人です。そのような人が聖霊様のバプテスマを通して生命の源であるように。 

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9.5

裁判官は正しい判決を行うために、全体の経緯や出来事の詳細を把握する必要があります。
人間の裁判官は、目撃者によって与えられた情報を収集し、判決を下します。この場合には、不当な判決が下される可能性があります。なぜなら、人間には欠陥があり、悪意を持っている人の犠牲者になるかもしれません。しかし、神様が裁判官になる場合は違います。神様は私たちに不当な判決を下しません。なぜなら、神様は私たち1人1人の意思や周りに何が起こっているのか全てを知っているからです。
全能者である私たちの神様には他の証人や証拠は必要ありません。なぜなら、神様は地球上で起こるすべての証人であり、私たちの全ての働きを知っているからです。

しかし、神様が判決を決めるためには、私たちは1つのことを行わなければいけません。それは、私たちが信仰を現すことです。信仰だけが神様の御前で私たちを正当化します。信仰によって神様から来る権利がもらえ、信仰によって全能者である正義の神様は、私たちの叫びに応えることが可能になります。

「きょうもまた、わたしのつぶやきは激しく、彼の手はわたしの嘆きにかかわらず、重い。 ヨブ記   23章2節

多くの忠実で誠実なクリスチャン達が、長い間苦しみを生きています。錆(さび)が鉄を消費するように、このような苦しみが魂を消費しているのです。
誰かが私に言いました。私は、神様が答えないことを恐れていたので、神様にこの苦しみを取り除くために求めませんでした。これが、神様に対する私の信仰の妨げとなってしまいました。
実は、ヨブも同じように考えていたのです。彼は自分のうめき声を自らの手によって黙らせていたと告白しました。そのような苦しみを生きている者だけがヨブの苦しみを理解することできます。
心の中で魂の叫びを押し殺しているのは誰ですか?
9月17日、私たちは苦しみの叫び声を押し殺している人々を正義の座である祭壇に登るために呼びます。 

 

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ダニエルの断食 – 21日目 

 

 

五旬祭の日に聖霊様が降り注がれたのはなぜでしょうか?
全員が同じ屋根の下で座っていました。まるで彼らが何かに「仕える」かのように
待っていました。 

 

不安なく、みんな待っていました。
忍耐力、マナー、騎士道は、その信仰の環境で描かれました。
もし、現代のテクノロジー技術(携帯電話)があったとしても、誰もその信仰の場所には持たせなかったでしょう。
全員が同じ場所で同じ考えを所有し、団結していました。
あなたはダビデのことを思い出しませんか? 

見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。詩篇  133:1    

全員が同じ場所に居る事は団結と思いの一致を示しています。
誰も自分や自分の利益を考えていませんでした。
なぜなら、彼たちがその場所に集まっていた理由は一つ、イエス様が約束された事が果たされるのを待っていたのです。
「地上」は神の種を受け取る準備ができていました。
聖なる種の成長を妨げとなる石、アリ、草など全てとり除かれた状態でした。
誠実さ、悔い改め、謙虚さは、信仰とともに悪霊のあらゆる攻撃を防ぎました。
聖霊様が降り注がれるために全ての条件が揃っていました。

突然、天から音が聞こえました。
強い風のような音です。
その家に座っていたもの全員を満たしました。
誰も、他の言語を話すとは思っていませんでしたし、想像すらしていませんでした。
しかし、それが起きたのです。
待ち望んでいた約束が果たされたのです。
それが叶ったのは全員が同じ場所で同じ霊と信仰にいたからです。その結果全員は聖霊様で満たされました。 
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。使徒言行録 2章 04節 

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ダニエルの断食 – 20日目
聖霊様を持つと言う事は、イエス様と同じ霊を持つと言う事を意味します。
もし、誰かが聖霊様を持っているかどうか知りたいのであれば、福音を通し見て確認して下さい。すなわち、イエス様と弟子たちの人生を見ることです。
例えば、新約聖書を読めば、聖霊様が降りてから文句や愚痴を言ったり、自分の感情的な面、個人的な問題、家族、経済面に対して、泣き言をいう弟子を見かけません。絶対にあり得ません!

騙す霊によって惑わされる者が騙され、あるいは惑わされた人だけが、貧しい人生を生きています。
聖霊様を受けるという事は問題から逃れるという意味ではありません。
イエス様は警告しました。

これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。ヨハネによる福音書 16章33節   

聖霊様を受け、生まれ変わったにも関わらず、イエス様と真の弟子達は大きな問題に直面しなければいけませんでしたが、彼らは日々乗り越えていきました。
彼たちが個人的な問題について他の人に文句を言っているところすら想像できません。
聖霊様を受けることによりバラ色人生を送るのではなく、この世に打ち勝つ力を得るのです。
聖霊様で証印された者は、誘惑に抵抗し、苦難が襲いかかる時には耐え、死ぬまで強固で維持する強さ、力、霊的な活力があります。

神様の霊である聖霊様は、言葉の賜物を与えるため来られたのではなく、この世、地獄、信仰者の敵、偽りの兄弟、偽善者、迫害、不平をいう者、または泣き言を言う者…全てと闘い、死ぬまで堅固であり続けてください。

*堅固:守りがしっかりしていて、攻められても容易には破られないこと。 

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ダニエルの断食 – 19日目 

私たちが問題に対してどう対応するかによって、私たちの霊的な状態と何を優先しているのかを示しています。

今まで得たもので、これから起きる苦しみを乗り越えれるわけではなく、私たちが信じているお方が誰なのかを自覚することによって乗り越えられるのです。
聖霊様の洗礼を受けた時、疑いはありません。したがって、どんな大きな問題であっても救いを損なう事はありません。
ダビデはいろんなことを征服し、常に勝利する事に慣れていました。
ある日、彼の息子は病気にかかり、彼は自分の息子の癒しを神様に求めました。
彼は断食し、地面に横たわって夜を過ごしたが、息子は死んでしまいました。

息子が死んだことを知ったときダビデは起き上がり、自分を洗い、油を注いで神の家に入り神様を礼拝しました。その後、昼食を食べました。その行動を見て、ダビデの僕たちに驚きをもたらしました。ダビデは言いました。

ダビデは言った、「子の生きている間に、わたしが断食して泣いたのは、『主がわたしをあわれんで、この子を生かしてくださるかも知れない』と思ったからです。 しかし今は死んだので、わたしはどうして断食しなければならないでしょうか。わたしは再び彼をかえらせることができますか。わたしは彼の所に行くでしょうが、彼はわたしの所に帰ってこないでしょう」。サムエル記下   12章22,23節   

子供は肉体的に死んでいたが、霊的に生きており、神様と共にいました。

ダビデは、この状況が彼の救いを損なうことがないことを明確にしていました。

私は夫を失った女性に会いました。彼女の夫は、肉体的に死んでも霊的に死んでいない可能性があります。しかし、彼女は生きていても、夫を失ったために霊的に死んでいました。つまり、夫は彼女にとって全てを意味していました。夫は妻の一番の優先順位となっていたからです。

ダビデは息子のことを大切にしていましたが、救い以上に大切ではありませんでした。

救いが、あなたにとって最も大切なものになるなら、絶対に何もあなたを傷つけることはありません。 

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ダニエルの断食 – 18日目 

神様は霊です。 

その現実によって、神様の御子であるイエス様は真実と霊によって求めている者を探していると教えています。

神様が霊と言う時、神様は人の感情をすべて取り除きます。つまり、賛美歌や楽器のメロディーなどによってもたらされる感情を排除するのです。もちろん聖なる歌が良くないと言っているのではありません。しかし、信者が聖霊様から生まれない限り霊によって、真実に礼拝する事ができません。聖霊様の性質が自分にない限り御霊によって求めることは不可能です。

しかし、残念ながら多くの信者たちは音楽の感情的な魅力にとても魅了され、心の気まぐれに惑わされてしまいます。

神様は霊です。聖霊様によって生まれた者だけが霊になることができます。ただの生きる魂では無く、感情的な人で無く。

解放のプロセスで生まれ変わる段階を歩んでいる人の中で、多くの人が霊的なことと感情的なものを勘違いしてしまいます。そして、これはまさに、人を騙す霊が錯覚を作り出しているのです。

真実と霊によって礼拝する(崇める)ためには、理性、知性を使用する必要があります…

神様は霊です。したがって、神様が全ての知性と知恵だと意味します。それゆえ、人が感情だけからなる礼拝(崇める)を受け入れられると思いますか?

イエス様は多くの奇跡を起こし、沢山の人々を集めましたが、イエス様は栄光を受けていませんでした。しかし、ギリシャ人の人々がイエス様をひと目見たいと言われた時、イエス様はこう言われました。

すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。ヨハネによる福音書   12章23節    

なぜ、人々を祝福した時、イエス様は栄光されなかったのでしょうか? 

イエス様は神様の御子であったからではなく、癒された人々の栄光が奇跡によって動機づけられたことを知っていたからです。

しかし、ギリシャ人たちは違っていました。彼たちは知的(賢さ)である神様の御子を見たいと思っていました。

人々の間でも同じことが言えます。人々はイエス様が十字架で行われたことによってではなく、自分のために行ってくれた恵によって栄光しているのです。

多くの誠実なクリスチャン達の中でも、感情に基づいた礼拝が何のメッリトもなく意味が無いことを理解していません。それ以前に、騙しの霊に隙間を与えてしまうのです。

これは、まさに最近起こった出来事です。このphanerosis(存在しないものを現実だと思わせる病気)に働く悪霊によって騙され、本当に異常な行動をとる人々がいます。なかには、まるで死人のように床に倒れる人や、自分がユダ族の獅子であると言い四つん這いになり歩き回っている人もいます。

主なる神が最高の礼拝(崇め)、霊と真実で奉仕されるべき時に、悪魔は肉欲によって生きる者達が捧げている栄光を祝っているのです。

騙しの霊は不注意な人の体を使って(感情)と嘘(騙すこと)によって「礼拝」をするのです。

親愛なる読者の皆さん、騙されないように注意して下さい。

私たちの主の愛、救い、主イエス・キリストの御名のために、自分にとってなんでも無いものを神に捧げないで下さい。

霊で礼拝するには、神の霊のために人間の精神を使う必要があります。シンプルな言葉は、誠実かつ感謝、確実性と真の愛で満たされています。

あなたがこのメッセージを読まれている間に、聖霊様があなたに触れ、神様が真理と霊で御子を礼拝するために助けることを確信させる為です。

すべてが主イエス・キリストの名によって祝福されています! 

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ダニエルの断食 -17日目

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 ローマ人への手紙   8章14節   

言い換えると:神様の人とは、聖霊様に導かれる人だけだと言うことです。聖霊様に導かれていない者は神様の子では無いのです。 

この言葉は、はっきりと説明されています。しかし、この世の人々は全員が神様の子だと言います。 

神様の霊によって導かれる神様の子たちは、神様、独自の個性をお持ちなのです。 

すなわち、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実  ガラテヤ人への手紙   5章22節

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ダニエルの断食  – 15日目

自分の運命の人は神様の聖霊によって準備されている、又は、神様はあなたを運命の人のために、あなた自身を変え準備して下さっている。とあなたはこのように考えた事はありますか?

あなたは神様のプロセス(経過)を遅らせている可能性があります。 

おそらく、あなたは頑固のせいで自分が間違っていることを認めたくなかったり、何が何でも、自分の思う通りにやりたいと思っているのかもしれません。 

この様な態度が有る限り、時間だけが過ぎ、あなたは一人であり続けます。 

このケースは、あなたが嘆き悲しみ疲れて、最終的に神様を受け入れ降参した時、聖霊様が働いてくれるのです。

神様は決して遅れません。頑固な者たちが遅らせるのです。 

頑固な人たちは、神様が約束したことが果たされると100%信じることができません。

信仰は経済的犠牲だけに限らず、自分を完全に捧げることが1つのサインです。

この信仰は、時間を無駄にせず、すべての疑い、恐怖、心配事、不安などを克服します。これは、神様とあなたの間にあった壁が取り除かれます。

この瞬間から、父なる神とあなたの間には完全な関係があります。それは神様の御子の聖霊様を通してです。あなたはその交わりを確信することができますか?

もし神様があなたの父であるなら、なぜあなたのために神様が選択することを信頼できないのですか? 

なぜあなたは理想的だと思う人にこだわるのですか?

あなたが苦しんでいる理由は、あなたの欺く心によって人を選んでしまうからではありませんか。

あなたの運命の人はあなたの心の望に沿った人だと思いますか? 

あなたの心はファッションや美容誌とかに出版されている理想の人を想い描いて選んでいるのです。 

あなたはこれを念頭に起き頑固になりこだわっているのです。聖霊様によって選ばれた運命の人は霊的なプロフィールを持っています。

外見は時とともに衰えていきますが、霊的なプロフィールを持つ2人は死を迎えるまでともに成長していきます。

恐れないでください。神様は間違った人を選びません。 

 

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ダニエルの断食 – 13日目 

 

監督さんこんにちは! 

 

私はローランダといいます。ベロ・オリゾンテのVYGで活動をしています。数ヶ月前に私の友達が不当に逮捕されました。この逮捕は、彼がダニエルの断食で聖霊様を受けてから2週間後のことでした。 

 

監督さん、彼は2カ月間刑務所にいました。私は彼が刑務所にいる間にとった行動にとても驚きました。彼をよく知っていたので刑務所の中でもきっと魂を救う活動しているに違いないと思っていたけど、彼は私が思っていた以上のことを行っていたのです。彼は刑務所の中で礼拝を行っていました。月曜日には経済面に対しての礼拝を行っていて、火曜日は恐れもなく、人の頭に手をかざし解放の祈りしていました。水曜日には聖霊様を求め、木曜日は家族のためのお祈りと、どのように自分の妻と子ども達に接するのかを教えていました。金曜日と土曜日も同じことをしていました。彼は教会のスケジュールと同じように礼拝をしていたのです。日曜日は奇跡の1滴の水を受刑者たちに与え、受刑者たちと共に賛美を歌ったりしていたのです。 

 

監督さん、奇跡の一滴の水が刑務所全体、受刑者の間で奇跡が起こったというニュースが広がったことが、最も印象的だったと彼は言いました。そして、彼は受刑者の中から体に傷を負っていた人を選び、癒しを定め、彼は癒されました。受刑者達は一日中教会のラジオ番組に耳を傾けていました。夜中の3時に彼は同じ部屋の人たちを起こしてお祈りをしていました。 

 

彼は刑務所の中で、牧師と呼ばれおり、受刑者たちは彼に敬意を払っていました。彼は刑務所の中で受刑者達に洗礼を授け、多くの人が刑務所から出た時、教会へ行って彼が自分たちに行ってくれたことを証言すると言われたそうです。 

 

監督さん、彼は不当に逮捕されことに対し不満を言うことが出来ましたが、彼はそれをせず、神様が偉大な方法で自分自身を使うことを受け入れたのです。 

 

監督さん、そのことが起きてから3ヶ月経ちました。しかし、今日やっと彼と刑務所の中で起きた事のお話ができたのです。彼はそのことに対して自分を高く評価しません、とても自然でそのように私に語ってくれました。彼の名前はセザルさんです。 

メールが長くなり申し訳ありませんが、伝える必要性を感じました。 

読んで下さってありがとうございます。 

さらなる神様の祝福がありますように。

ローランダ ゴメス 

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ダニエルの断食 – 12日目

神様と僕の関係の深さは、神様の御心を常に行えるように心がけるかでわかることが出来ます。神様を喜ばせるためには、自発的に神様の御心を行わなければなりません。 

これは本当のいと高き神様の僕である人の人生を導く最も気高い気持ちです。

ほとんどの人々が、自分の思うがままに日常生活の中でこなさなければいけない仕事やすべきことを優先して過ごしていることが理解できます。しかしながら、その多くの人の中には、聖書を知り尽くしている人や何年も教会に通っているにも関わらず、自分が信じると主張する神様の御心を優先しようとしないことは残念なことです。

しかし、人はどのようにして自分が知らない人に仕えることができますか?どのようにして人は、見知らぬ人を喜ばせることができるんでしょうか?

この問題は聖霊様から生まれ証印された者には当てはまりません。聖霊様から生まれた人たちは神様の御心の意味を完璧に理解しています。何よりも主イエスと同じ霊によって所有されているからです。聖霊様から生まれた人は、仕える為に生まれ、仕えてもらうためではありません。神様の御心を理解しているのです。しかし、彼らが御心を行うか行わないかは、全く別の話です。しかし、神様を喜ばせるとき、不安やストレスなどなく、自然的に自分の夢を実現することができます。特に神様の御心は決して神様の子供たちの幸福に反することはありません。父として、神様は子供のために何が1番良いのかを理解しています。

いつも、または時々、自分の望んでいる資産(土地・家屋・金銭などの財産)の祝福を得るために信仰を使います。これに関して1つ質問をします。子供が10万円を1人で管理するとは出来ますか?もちろん物質的な成果を得るためには信仰を使わなければいけません。神様の御心に基づいて信仰を使い従えば、祝福は呪いになりません。結局のところ、聖書に書かれている通り、急いで得られる資産は祝福ではありません。 

初めに急いで得た資産は、その終りがさいわいでない。箴言  20章21節 

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ダニエルの断食  – 11日目

神様の霊(聖霊様)と人間との関係は、言葉で説明する事が出来ないほど尊く深いものです。一人一人その栄光を知るために自分の経験を得る必要があります。

とはいえ、少しはその栄光を想像することができます。聖書に書かれている夫婦関係に従って生きる妻と夫にある喜びを見ればわかります。この喜びは、祭壇の契約を再確認し、友情、パートナーシップ、団結力を強化します。この喜びは良心を汚す事はありません。信仰を使い忍耐するのに役立ちます。

この関係の成果は、二人を心から笑顔にし、『あぁ、なんて素晴らしい瞬間なのでしょう』かと思わせます。

聖霊様が人間の中に浸透する瞬間を想像してみてください。説明できない喜びです。

五句節の日、生徒たちはとても喜び意味がわからないような言葉を発しました。心の中で全員が『何と言う素晴らしい日なんだ』と言ったのです。 

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ダニエルの断食 – 10日目

現在社会では、支払いの担保(保証)として自分の資産などを掛ける事は一般的に行われています。しかしながら、これはパウロの時代にすでに行われていました。パウロは聖霊様によって導かれ、エペソのクリスチャンの人々に約束された将来の事を理解させる為、この習慣を利用しました。

あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。  エペソ人への手紙   1章13,14節

この節を簡単に読むことができます。

副音の言葉を聞いて、主イエスを信じた後、あなたは救われ、聖霊様で満たされました。聖霊様は、神様の栄光と賛美をたたえるために、神様が所有されている人々を救う日までの保証です。

もちろん、聖書には偽りのクリスチャンや肉欲(自分の欲望)によって生きる人たちのために約束されているのでは無く、聖霊様によって生まれた者だけを対象としています。

自分の肉欲をイエス様のために犠牲にして信仰によって生きると言う事はとても栄光なことであり、すぐに報いを受けます。

私たちはイエス様を見ていないし、感じたりもしなかったし、触れることもなかった。私たちは天国や天使、何も見ていません…

ですが、永遠の保証として私たちにあるのは、心の奥底からくる確信です。

イエス様は、このような確信を預言していました。 

イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。  ヨハネによる福音書  20章29節   

したがって、神様の個人的な宝物として、聖霊様によって生まれた人々は、この保証の証印があります。この世で神様の為に人々の魂を救っている限り、彼らは約束された聖霊様の保証はイエス様が戻られる時まで持ち続けます。

このような人々は神様の栄光の資産(所有物)です。 

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ダニエルの断食 – 9日目 

ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。  ヨハネの黙示録   1章10節    

霊的である時だけ、神様の声に聴き従うことが出来ます。 

では、霊的でいるということは、どのような状態のことを言うのでしょうか? 

自分にとって好都合なとき(全てにおいて平凡である時)、霊的でいられますか? いいえ、違いますよね。 

肉体(自分の欲望)が世界の喜びに満ちている間に霊で生きることは可能ですか? いいえ、違いますよね。

では、どのようににすれば霊的になることが可能ですか?

第1 – 心から神様の御言葉を瞑想している時、または自分の考えをいと高き神様の考えに置き替えられた時。 

第2 – 御言葉を瞑想する時は、この世の物事を見たり聞いたりすることるを手放す必要があります。あなたの周りに起きている全てのことに対して、盲人や耳が聞こえない者にならなければなりません。霊的になる事を妨げる様なネットワーク、TV、映画、世の本など霊的な考えから逸らす全ての娯楽を控えます。 

確かに難しいですが、自分の魂を救うのも難しい事です。

イエス様は言われました。 

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。  マタイによる福音書  7章13-14節   

確かに、狭い門を通って天の御国に入る保証を得るに、この世の簡単な道である居心地が良い広い門を犠牲にした者は数少ないのです。これもまた、聖霊様の豊かさを受ける人々が少ない理由です。 

しかし、それ以外にの方法はありません。神様の御霊を受けるために代価を払うことを望む者は、肉の欲望を捨てなければいけません。

ダニエルの断食は、心から神様の霊である聖霊様を求める者のためだけにあります。 

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ダニエルの断食 – 8日目

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、  ガラテヤ人への手紙   5章22節  

この文章に間違いがあるように見えるかもしれませんが、パウロは九つの徳を述べていますが、その九つは一つの実です。この実は、心を指しています。アダムの様な反抗的な硬い心ではなく、聖霊様により生まれ変わった新しい肉の心です。

この節を読んで見てください。 

わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。  エゼキエル書 36章26節

霊から生まれた者は、新しい心と新しい霊を持ちます。 新しい霊は新しい心、神様の心を意味します。コリント人への第一の手紙   2:16 

だから、新しい心は、神様の性格を識別する九つの徳をもたらします。

新しい心の徳の愛とは、束縛でもなく、自己中心的でもなく、非現実的な愛でもありません。その真逆です。

愛は、新しい心の他の徳と同じように来るもので、永遠の神様と同じ心になります。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書 3章16節    

このような愛は、この世の「感情的な愛」と真正面からぶつかり合っているのです。聖霊様によって新しく生まれ変わらない限り、それを理解することは、不可能です。

神様の愛は犠牲が伴う愛であって、感情的なものではありません。神様の聖霊の心で愛する者は、愛する相手の為に犠牲をするものです。信仰と同じ様に愛も犠牲が必要なのです。 

愛する者は幸せになりたいがために結婚をするのではなく、愛する相手を幸せにしたいから結婚をするものです。ですから、イエス・キリストを愛する者は、犠牲をしイエス・キリストを喜ばせようとします。

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ダニエルの断食 – 7日目

新しい人生の奇跡とは、イエス様がお生れになられた時と同じ様に行われます。神の子:マリアはいと高き神様の霊に包まれ、イエス様を授かりました。

聖霊様から神の子として生まれ変わった人たちも同じようなプロセスを通らなければいけません。

30年後、イエス様は本当に神の子になる方法を宗教的な先生(律法学者)に教えました。

イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。ヨハネによる福音書3章5節

水から生まれるには、人間の思考を神様の思考に置き換える必要があります。神様からくる水は役に立たない無駄な思考を洗い流し、神様の命をもたらす思考を代わりに入れ換えて下さります。

聖霊様から生まれるということは、御使がマリアに言われた通りに行われます。

御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。  ルカによる福音書   1章35節    

これは皆さんに起こらなければいけないことです。神様の御言葉を謙虚な心で信じる者全ての人です。 このため、生まれて来る聖なる者は神の子と呼ばれるのです。 

結論として聖霊様はパウロを通して、以下のように述べています。 

しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。  ローマ人への手紙   8章9節   

あなたに質問します。 あなたは聖霊様を授かりましたか? 

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ダニエルの断食 – 5日目 

なぜ、私は凄まじい苦しみの中を生きていますか?

なぜ、私は神様を信じているのに、地獄のような人生を生きているの?苦しむために生まれたのかな?これが、私の運命なの?試されているのか?運が悪いのかな?私は誰も傷つけたりしないし、助けることが出来ないなら、邪魔をしないようにしてるにも関わらず、自分の人生は災難ばかり。新しい人生を始めることを夢見て結婚しました。しかし、自分の問題は増すばかりです。本当に神様は存在するのか?もし存在するなら、なぜ私の人生は何も上手く行かないの??

答え 

この世界には2人の主人が存在します。善と悪です。人それぞれ宗教や人種、文化、社会階級、教育、信念、不信などに関係なく、どちらか一方の主人に仕えます。あなたが信じているかどうかに関わらず、これは事実であり、逃げることは出来ません。

私は悪の僕として生まれました。それは、私の選択ではなく、両親が無知だったからです。物心を理解するようになってから、善の主人を知りました。宗教により物事が見えなくなっていた為、自分が迷っている事すら気づきませんでした。私は、教会に通う事で火の池と硫黄から自分を守るのに十分だと心から信じていたのです。黙示録20:15

あの瞬間を説明する言葉が見つかりません。ただ、はっきりと言えるのは、私の目と耳が開かれたので、私は神様の御言葉を塾考し、聴いて理解することが出来たということです。言葉に表すことが出来ないほどの喜びに溢れ、笑うか泣くか分からない程、魂に喜びを感じました。このような経験は今までに一度もありませんでした。私の魂から全ての重荷が取り除かれ、その隙間は天の喜びで満たされたのです。そして私は新しい心を受け、結果的に新しい人生を得ることが出来ました。これは光の主がもたらす働きです。新しい人生を創造されるのです。完全に新しい人生を。

イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。 これは、イエス様に従わない者は誰でも暗闇の中を歩くことを意味します。これが多くの人々が地獄のような人生を生きている理由です。

もし、雇い主が圧制者(圧制:権力をもつ者が、その権力や暴力を使って、他人の言動を無理におさえつけること。)ならば、従業員は虐げられます。しかし、雇い主が公平であるならば、従業員は雇い主に仕えることに喜びを感じます。

あなたの人生はあなたが仕える主人に頼ります。したがった、人生を変えたい人は、まず最初に主人を変えなければいけません。(善か悪)

人は奇跡を受け取ることはできますが、あなたが主人を変えなければ、あなたの人生はとても悪い状態で継続していきます。

神様の御霊が悪い僕たちの理解力を開かれますように!

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ダニエルの断食 – 4日目

わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 ガラテヤ人への手紙   5章16節    

霊的によって歩くと言うのは神様が考えるように歩くと言う意味です。神様をどのようにして喜ばせることができるのかを考える。

神様の教えについて考え、それを実践するやり方は信仰を高め、疑いを中和します。

神様が約束されたことを信頼し、実現するまで待っているということは、悪の行いを排除します。

疑いであることを疑いながら、恐怖に立ち向かい、約束された未来を想像することによって、過去に起きた悪いことを忘れることができます。

霊的に歩みながら同時に恐怖感を持ち歩むことは不可能です。だから、いつもネガティブな考えに対し受け入れるのではなく、ポジティブに考える必要があります。

イエスの名によって、すべてのネガティブな考えが私の頭から消えるように!!と祈るくらいできます。あなたは大きな声で言う必要もありません。ネガティヴな考えに対し神様の御言葉を使用してください。

イエス様はこのようにはっきりとペドロに言いました。 

「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。マルコによる福音書   8章33節

悪を恐れないでください。 

いつも悪に抵抗してください。

勝手に悪い考えは消えるとは考えないでください。気をそらすことによって悪い考えは離れますが、すぐに戻ってきます。

イエス様の名の権威によって戦い、叱責し、抵抗しなければいけません。これが信仰によって歩み、信仰の霊の中に生きる信仰の良い戦いです。 

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ダニエルの断食 – 3日目 

すでに聖霊様は送られているのに、なぜ多くのクリスチャンたちは、聖霊様を受けていないのでしょうか? 

聖霊様を受ける妨げになっている事は何でしょうか? 

信仰がないから?受け取る価値がないと思ってる?完全に尽くしていない?

いろんな理由があります。

私は、聖霊様を受け取ることが出来ない最大の妨げは、完全に捧げきれていないことだと信じています。

聖霊なる神とは、全能なる神を信じる者に100%注ぐことを意味しています。聖霊様を受け取りたい者は、自ら神様の御子イエス様に100%捧げなければいけません。(自分自身の欲望を捨て神様の御言葉に従うということ)

信じるものが全てを与えたときに、代わりに受けるのは神様の全てである聖霊様です。 

残念ながら、全ての人が本当に自分の人生や罪を手放すことを受け入れたくありません。

自分の救い主として受け入れますが、自分の主人にはしたくないのです。 

このような人たちは、神様と契約をせず自由に人生を楽しみたいのです。

聖霊様を受けたときにだけ、神様を信じていると言う人々を信じる事ができます。

本当に信じる人は結婚をし、家族やこの世、地獄全ての前で主イエスとの責任をしっかりと果たすことができます。

優柔不断ではなく、はいか、いいえがしっかりと言えます。信じるか信じないかです。

多くの人は、イエス・キリストが自分の主であり、命の救い主であるとフリをします。忠実であるフリ、霊的であるフリ、求めているフリ、自分が神様の人だというフリ、いろんなフリをする… 

年が変わっても変わっても(2017→2018→2019)偽り続けます。

神様の霊である聖霊様はその人が捧げていることを信じているフリをしません。 

しかし、聖霊様は私たちの内面の奥深くにあることを見ることができます。そして多くの偽りを見て悲しんでいます。 

それとは反対に、悪魔はそれを見て喜んでいます。そして、その人の人生はいつまでも変わりません。

教会に来る、10分の1を捧げる、誓う、お祈りをする、泣く、叫ぶ、しかし、罪を手放しません。 

イエス様は言われました。

御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。ヨハネによる福音書  3章36節

*聖書による信じるとは、体、魂と霊により無条件で捧げるということです。 

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ダニエルの断食 – 2日目 

神様の御子が産まれるためには人間の手助けは必要ありませんでした。教会や教義ましては、聖書の知識などが、神様から生まれさせるわけではありません。 

聖霊様から生まれることは、聖霊様にしか出来ない働きであり、聖霊様が行う奇跡は、イエス様の世代と同じやり方です。

マリアは御使いにどのようにしてイエスが自分の中に授かるのか聞きました。なぜなら彼女は男性との関わりがなかったからです。彼女と同じように、多くの人はイエス様を自分の主として受け入れて水の洗礼を受けたら神様から生まれることができると思っています。それはクリスチャンの教義であるけれど、それだけでは約束された新しい誕生(新しく生まれ変わること)を受け取るには不十分です。

御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。  ルカによる福音書 1章35節   

イエス様がマリアの胎内から生まれたように、また神様の子たちも聖霊様によって生まれるのです。すなわち、聖霊様によって、いと高き者の力が(神様の力)覆います。その瞬間、涙が溢れ出ます。まずは自分の罪に対して悲しみます。それは聖霊様が私たちに罪を犯したことを納得させるからです。そして自分が完全に失ったと感じ、自分を救うことができる人を探し求めます。そしてもう一度聖霊様は救い主を指し示します。

その瞬間その人は、全力で心と理解によってイエス様に降伏します。そして悲しみの叫びは説明できないほどの喜びに変わります。その瞬間からその人は神様の性格を持つようになり新しい人生を歩むことができるようになります。 

過去の記事

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『あかしをするものが、三つある。 御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。(  ポルトガル語の聖書には、父と御言葉と聖霊であり、これらは一つである。と書かれています。)』ヨハネの第一の手紙/5章7節

聖霊様がいる場所には、霊的に団結があります。

そこにいる人々の信仰は一つ、霊も一つ、考えも一つ、目的も一つ、心も一つ、つまり全てが一体となるのです。この1つの純粋で聖なる体は、主イエス・キリストの待望の花嫁です。それは主イエス・キリストの汚れなき聖なる教会の事なのです。また、この汚れなき一体の頭は主イエス・キリストなのです。

これこそが初期の教会の構想でした。この初期の教会での『信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有していました。』使徒行伝 /2章44節 

この信仰による考えの団結で、聖霊様は、自由に自分の使徒達に働くことができたのです。誰もが、完璧な平和と団結の中で生きていました。

しかし、神様の御霊がいないと、平和と信仰は無くなります。特に信仰によって家族となった者との生活の間での調和が無くなります。

神様から生まれた者は皆、同じ霊を持っており、一人残らず同じ目的を持っています。それは、神様の御霊の御心を行う事です。

しかし、聖霊様から生まれていない者は、自己中心的で、肉体的で、さらに最悪なことに、人を分裂させる者なのです。

祭司のお祈りの中で主イエスは、団結に焦点を当て、下記のように言っています。

『聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。』ヨハネによる福音書/17章11節 

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価値が何かを求める動機(モチベーション)を決めます。ある場所に100円があり、見つけると100円はあなたの物になります。あなたは探すことも可能ですが、見つからなくても100円だからと思い動機がすぐに終わります。もしも、それが100万円だとすれば、あなたは眠りを失って、食べなくても、「自分の人生を変える事ができる」と思い全てを忘れ無我夢中にり、最後まで動機を失わず、その価値を探し求めます。

天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。  マタイによる福音書   13章44節

聖霊様は、あなたの人生の中でどのような価値がありますか?

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。  ヨハネによる福音書 14章26節

慰めるお方 : 牧師達は、おそらく誰かが亡くなった時、不義をされた時、一緒にいません。

教えてくれる:特に砂漠(困難な状態)を歩んでいる時、人生で苦しいとき

思い起させる:試練の間、物質的な祝福や治癒などがあったとしても、あなたが最後まで忍耐するのに役立ちません。ですが、聖霊様を受けたとき御言葉により、例を思い起こさせ、私たちを強めてくれます。

人が聖霊様の価値を理解したとき、神様の御国は優先されます。

何を犠牲にしなければならならないか関係無く、とにかくやるべく事は全て行う。そして、聖霊様を受けた人は、何を犠牲にするべきなのか誰にも言われなくてもわかっています。そこで、私たちの動機は完全なものとなります。

過去の記事

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朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。ヨハネによる福音書 6章27節

父なる神は、ご自身の御子、イエス様が聖霊様の印章を通して、唯一の永遠の命を与えるのであると認証しました(ヨハネによる福音書6章27節)。ですから、聖霊を受けるという事は、永遠の命を意味する神様の印章を受けるという事なのです。  

イエス様は印章されただけでなく、御自身を信じる者を聖霊様で印章する権力の持ち主なのです。  

もちろん、この事を信じない者には通用しませんが、主の使徒にとって、これは多く存在する特権の中で一番の特権なのです。  

聖霊様を受けるのに権利など必要ありません。ただ正直であればいいのです。  

神の御子も死に打ち勝つ為に聖霊様の印章が必要だったのであれば、ただの人間である私たちはなおさら必要ではないのでしょうか?  

聖霊様の印章は、(受け取った者が)神様の所有である事を認証しているものです。ですから、この認証を受け取った者は、永遠の命の保証があるのです

過去の記事

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私の人生に父親の存在があることに感謝します。私が幼い時、父との関わりが少ないなかでも、一緒にいて欲しい時には一緒にいてくれて、気にかけてくれる父親でした。 

私たちが眠りについた後に父は帰宅し、そして私たちが起きた時には既に仕事へ出掛けていましたが、母が満たされていたのを見て、父がちゃんと家に帰って来ていることが分かりました。私たちが父に感心を持てた1番の理由は、父が母にとってとても良い夫だったからです。 

自分の母を苦しめるような父に、どうしたら感心(称賛)を持てますか?あなたの一番近くにいる母に忠実でない父、悪い影響を与える父に感心(称賛)をもつことが出来ますか? 

父親としての見本になる前に、あなたの子供達に男性としての見本にならないといけません。ただ、優しくて家の中にお金を入れるだけで十分だと思いますか?この考えこそ多くの父親の最大な過ちの1つです。なぜなら、このような父親たちは本当の男性、夫でなくても、父親であり続けることができると思っているからです! 

多くの人達が元には戻らない過ちを犯してしまったことを知っています。しかし、自分の子供達の母親(妻)に対し尊敬と尊厳をもち接してください。彼女への愛では無く、自分の子供達のためにです。せめて養育料を払ってあげて下さい。あなたが家族関係を養える力がなかったことによって最初に築いた家族を苦しめさせないで下さい。また、自分のためにも今の妻を愛してください。 

父であることの重要性はとても大きいのです。だから神様自身もご自分で父と呼んでいます。父の役割が神様の基準に合わないならば、神様はご自分を父と言わないでしょう!  

父なる神は教会の夫なのです。つまり、多くの人が思い込んでるように父親の最も重要な役割は与えるだけではありません。 

父は家族のアルファ(一番目)です。 父は先頭に行き、全員を全ての危険や問題から自分の命をかけて守るのです。家族を養い、自分を犠牲にし、自分の家族の為に尽くします! しかし、父親がこの大事な役割を果たすためには、自分の子供達の母親である妻の為に、全てのことをするということに焦点を当てる必要があります。 

夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。  エペソ人への手紙   5章25-28節 

つまり、妻を愛する夫は、彼女が聖別され、しわも、しみも無く、申し分も無い栄光ある女性となる為に自分自身を捧げるものなのです。このような女性は、自分の年齢、外見、不安に縛られません:これこそが本当に幸せな女性です。 

これは私の父が母の為にしたことです。そして、私や妹にとって父は母を通して、男性、父親そして夫の見本となりました。 

幸せは母親は家族全員を幸せにします。🙂 

信仰の道に歩み続けてください。

過去の記事

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何らかの原因で堕落した人の多くは、信仰に関しても落ち込んでいます。

そして、下記のように悪魔の声が強くなるため、教会へ戻るのがより一層難しくなります。

  • みんな、君の事をどう思ってるかな?どう話してるかな?
  • 誰も君の事を信じてくれないよ。みんなは、君が落ちこぼれだと思ってるよ
  • 家で聖書を読んで、お祈りしたほうがいいよ、そうすれば、人の目を気にしなくてすむし、裁かれずにすむ

これが、あなたに悪魔が1番望んでいる事なのです。なぜなら、クリスチャンが教会の交わりから外れるほど悪の攻撃がもっと強くなるからです。

そして、このように始まります。今日、聖書を読んだけど、次の日には忘れてしまう。ある日は、熱心にお祈りして、ある日は、そでも無い。そのように、少しずつ気づかないうちに信仰の行動の代わりに「感情的な」ものに置き換えていきます。そして、ふとした瞬間に自分の炎は燃え尽き、石炭になります。

例えとして、僕が若い頃同じ教会の女の子に恋に落ちました。彼女の霊的な状態を見て僕の妻にふさわしいと感じました。彼女と婚約をして家のために物を購入し始めました。

時が経つ連れ、それが神様の御心ではないと気づきました。婚約をキャンセルしました。しかしその後、彼女の親や自分の親、教会の人たち、牧師や監督にも批判に直面しなければなりませんでした…

裁かれるような目で見られるのがとても恥ずかしかったです。それは簡単ではありませんでした。

しかし、恥ずかしい思いの中でも、しっかりと教会に通い続けました。なぜなら、私の救いが掛かっているからです。私は、救いに関して遊ぶことはできませんでした!

維持するためには、炎(教会)と共にいなければいけません。箴言26:20

たとえ、恥ずかしい状態や、困惑な状態であっても。

神様は時々、私たちが自分自信の信仰にプライドが高くならないように、私たちが屈辱されることを受け入れます。

これが、あなたと同じケースであれば、その屈辱を神様に感謝して前に進みます! だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。マタイによる福音書   23章12節

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こんちは、監督さん!

私たちの神様が私たちを守り続け、私たちを通し福音を伝え続けて下さいますように。私は監督さんとユニバーサル教会が神様ご自身のものだと確信をしています!私たちの神様が確に生きているように、神様の御言葉を通して、神様の霊により私たちを養って下さいます。

監督さん、私は最近自分の変化に気づきました。神様の声をもっと聞きたい、そして、神様が何を言いたいのか理解したいと願っていました。だから私は、神様と100%繋がり、神様の声に敏感になり、神様が何を言おうとしているのかを見つけるために、絶え間なく探しもとめました。そして、監督さんが教えてきた霊は、本当に神様の者であることを証しています。神様が私たちに語りかけてきてことはとても素晴らしいです。

黙示録の勉強会が始まる前に、私はすでに多くのことを瞑想していました。イエス様が戻られる時のこと、魂のこと、この世の多くの物事により、まだはっきりと理解できない人たちの事について。そして、今週エジソン監督のメッセージを聞いたとき、神様が私に何を望まれているのかはっきりと分かりました。それは、神様との交わりを持ち、霊的に苦しみまだ神様との出会いが無い人たちを助けること。このような人たちは、理解していないため、プライドを持ち、苦しみ、自分のやりたいように歩みます。そして、私たちはこのような人々たちに対し神様の声を表しているのです。

日中私は、御言葉に集中し、瞑想をしていたら実りの多い1日となりました。しかし、聖霊様がはっきりと私に答えたのは、夜で、ある一節を与えてくれました。その一節は正直に言うと、聞いたことはありましたが、特に読んだり、考えたりはしたことがなかった一節でした。それは、御言葉が最後の人に伝えられるまで、主イエスが戻ることはないと。この教えが気になり、この節を探しました。

そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。マタイによる福音書   24章14節

そこで、私は聖霊様が望んでいたことを理解しました。ただ、教会の新聞を配ったり、イエス様のことを話すだけではなく、霊を伝え、福音を人々が理解できるように伝えることです。そうすることによって、彼らは救いのチャンスを得て、その御言葉を通して、聖霊様が降るチャンスを得ます。

伝道師として、魂を救うことが私たちの仕事です。ただ、人を教会に連れて来るだけではありません。誰もがこれを行う信仰があります。ですが、私たちの本当の役割は、彼らが神様と出会えるように、また新しく生まれ変わり、魂が救われるように導かなければいけません。

監督さん、毎週日曜日18時から行われている、黙示録の勉強会は、きっと暗闇の中にいる多くの僕を照らし救うことでしょう。私は間違いなく、聖霊様は、聖霊様の者である私たちに語りかけ、考えさせているんだと思います。また、聖霊様が私たちを見守っている事と、上記のような人々の元へたどり着けるように、目覚めさせ、チャンスをくれている事とを私は間違いなく信じています。

私は道を歩いている時、人々の目やその顔を見ると、これらの魂に御言葉を伝える必要があることを理解します。そしてすぐに、私は今まで以上に神様に使われるようにお願いします。多くの魂があります。

このような瞬間を共有していただきありがとうございます。

生きた救いの神様が、この使命にいるすべての人々を祝福しますように。

ベアトリス パウラ

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とある小さな田舎町で、ゴミ収集屋は作業を中断し、ゴミ収集車は通らなくなりました。その中断は何カ月も続き、町の道端や路上にゴミが溢れ、見るに耐えられなくなっていました。臭いはもちろん酷いものでした。

ある住民が自分の庭にあったゴミとその臭いに耐えられずに、解決方法を考えていたら、「どうしたらこのゴミから解放できるのか分かったぞ!」とひらめいたのです。

すると彼は、ダンボール箱とプレゼントの包み紙とリボンを買い、自分の庭のゴミを全て箱に入れ、プレゼントの紙で包み、リボンを結びました。公園に着くと、車のトランクから箱を取り出し、みんなの目に付く場所に置き、木の陰に隠れてじっとして見ていました。

箱の近くを通っていた人々は、車の近くに誰もいない事に気づくと、自分は運が付いていると思い、箱を持って走って行きました。しかし、家に着いて箱を開けて見ると、外見は綺麗だが、中身は異臭とゴミでいっぱいだったことに気づくと、悲しく失望していました。

結論:多くの人々は、この世の「ゴミ」を家に持ち帰っているということです。残念ながら、内面が「ゴミ」だらけで、その「ゴミ」を他の人へ押し付けようとしたがる人々が多くいます。また、自分は賢いと勘違いをし、偽りでいっぱいになった「箱」を自分の内面に取り込んでしまってる人々もいます。この人々は、気づかぬ間に自分で自分を「汚している」のだと気づいていないのです。

多くの人があなたの家(あなたの内面)に持ち帰ってもらいたいゴミがいくつか下記に示されています。

疑い、恐怖、悪意、プライド、反抗心、不信仰さ、怒りなどです。

このような悪い感情が人の心を汚し、神様から引き離すものなのです。

ですから、自分の内面にあるものに気を付けてください。

「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」箴言/4章23節

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神様は、全てを創造し終えた時、地上で御国を広げる為にアダムとエバを創造しました。しかし、彼らは過ちを犯し、地上での神様の御国は成立されずに延期されることになりました。

人々の堕落した精神と道徳によって、主はこの人々を滅ばざるを得なくなり、ノアとその家族で再び全てをやり直すことになりました。

しかし、彼らもまた過ちを犯し、人々の堕落は勝ち残ってしまいました。再び神様の御国は成立されませんでした。

このことを踏まえ神様は、正義が貫き通され、地上で神様の見本となるような民を立ち上げる為にアブラハムを選びました。しかし、アブラハムの子孫も過ちを犯し、またもや神様の御国が地上で成立されることはできませんでした。

結局、「人類」を通して御国を成立させられなく、神様は、望んでいる人々の心に御国を成立させる為に、御子のイエス様を地上に送りました。

まず主イエスは、地上で神様の御国を12人の使徒で始めました。「教会」とも言われる、地上にいる神様の御国の住人は、神様の御霊に導かれることになります。このことから、ペテロは、聖霊様の導きで、イエス様の真の使徒に宛てた、次のような手紙を書きました。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」ペテロの第一の手紙/2章9節

ですから、主イエス・キリストの真の教会の一員は、見知らぬ教派などの看板を掲げたりしません。

彼らは、聖霊なる神様の導きで、御子なる神様を通して、父なる神様との関係を守ります。

同じように、救い、関係、高き神様の祭司(僕)としての立ち振る舞い、神様に御国から来る正義、自分達が神様だけの民である事実、つまり、超自然的な信仰を守り通しているのです。

これら全てを命と言い、また、豊かな人生とも言えます。

過去の記事

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ヘブライ語で祭司とは、Kohanim(コハニン)と言います。祭司の始まりであるレビ記の書は、ヘブライ語でVayikra(ヴァイクラ)といい、意味は呼び出された者、または選ばれた者を表しています。つまり、祭司は人々を手伝うために呼ばれ、犠牲の捧げものを神様の元に運ぶ為に選ばれたのです。

モーセ五書(モーセが書かれた書物):創世記、出エジプト記、レビ記、民数記と申命記。レビ記は、律法(モーセ五書)の中心にあります。律法とは、特定の目標を指し示す槍(ヤリ)を意味しています。つまり、それは神様に辿り着く道を知り示すこと、知識や啓示のことです。

レビ記の2つ前の書は、創世記と出エジプト記で、この2つの書物の50文字づつ、左から右に数えていくと律法という言葉が表示されています。

また、次の2つの書物には、律法という言葉が全てに表示されています。律法という言葉は全ての書物に右から左に記載されています。

聖書の中で50という数字は、満足感、喜び、神様の御霊の完璧さ、完全なサイクルを表しています。

結論:

神様を知る為には犠牲が必要なのです。そうしたら、律法は祭司(レビ人)、選ばれた者を指します。なぜなら祭司たちだけが神様に犠牲を備えることができたからです。そうすることのよって民は神様を知ることができたのです。

また、ヘブライ語で中心を指す意味を持つトーラーになります。

そして、誰もが神様を知る唯一の方法は犠牲をすることです。祭司なしでは犠牲はありえません。サレムの王メルキゼデクはアブラムを祝福し、そこでアブラムは神様を本当の意味で知り、アブラムは大祭司に最初の十分の一を捧げました。

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感情のない信仰が、魂を救うための唯一の道具(ツール)です。この事をふまえて、地獄は全力で人々を情熱的な愛(感情だけに流される愛情)に注目をそらしています。

この自由で刺激的な愛によって、なんでも出来ると思えてしまうので感情的に動かされる者を魅了させます。男性と男性、女性と女性、老人と若者、金銭的な都合の愛、この世と自分への栄光の為などがあります。

悪は、このような感情を維持させます。また、地獄のような結婚生活を送らせることだけではなく、自分たちと同じような子供を増やす為に、影響を与え反抗的な子供を育て上げる目的を持っています。その結果として社会は混乱します。

そして、お金への「情熱的な愛(欲望)」のせいで不幸になっている人は少なくありません。そのお金への「情熱的な愛(欲望)」が、この世の中の不公平を引き起こさせる原因となっています。

お金持ちの人は、より多くの利益を求める事だけを考えています。たとえそれが、貧困な人々の死や不幸を引き起こす可能性があったとしても構わないのです。

確かに、お金は安心感と権力を感じさせ、自分の魂の行き場を忘れさせます。愚かな人々はそのような情熱(欲望)に魅了され信仰から離れていきます。

そうして残念ながらその「愛」によって多くのクリスチャンの繊細な信仰をそらさせています。しかも、その中には昔から神様の僕(しもべ)として使われている人たちも含まれています。

貪欲(欲望)の霊は、神様の御国を捨てた「反抗」する人達を従わせるだけではなく、破壊をもたらす子供達を育てる結婚生活を作る為に、「情熱的な愛」に大きく力を入れて誘惑を仕掛けています。(浮気など)

この「情熱的な愛」が影響与えるのは、お金の面だけではありません。例えば、男女の間に生まれる情熱(感情)による破壊は大きいです。

お金自体は、悪い物ではありませが、お金への「情熱的な愛(欲望)」が私たちの人生を崩壊させるのです。

二人の女性や男性を同時に愛する事が出来ないように、2人の主人に仕える事は出来ません…

だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。マタイによる福音書   6章24節

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ユニバーサル教会、創立40周年おめでとうございます! 私はこの場所で多くのことを学び、仕事の面でもとても祝福されました。

私は自分の信仰とユダヤ教の宗教を深く信じています。そして、私は本当の兄弟姉妹のような友達をユニバーサル教会の中で見つけました。私は、社会の中で役に立たないと思われている人々を信じており、一度も人のことを諦めない

マセド監督を尊敬しています。思いやりと厳しさが悪との戦いに日々不可欠なツールであることを示しています。

ユニバーサル教会を通して私は初めて刑務所を訪問しました。そこで、私は励ましの言葉と少しの石鹸をもらっている心に傷を抱え弱った人たちが、1人の人間として受け入れらてる様子を目の当たりにしました。小さなことに見えますが、何もない人達にとっては、とても大きな事です。

そこで、アルコール依存だった男性、不誠実で何もかも失ってしまった人たちが、見本となれる夫、父親になっていくこと、また、女性たちは、自分たちの価値観を見つけて売春を止めたり、自分自身を愛せるようになり、本当に生まれ変わり幸せな人生に導かれていく事を見ました。

他にも、医者から死の宣告を受けたにも関わらず、生きる希望と癒される希望を取り戻した人々を見ました。(何故なら癒しは考えから来るものだからです)。信仰を示す行動に移したという事です。

ですから、突然あらわれ、みんなが認めていた人気TV局を敵にまわし、正面から立ち向かっているマセド監督牧師は、本当に敬意を表すべき方です。

By Amanda Aron Chimanovitch

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僕の名前は、ダニエル・ジュニオール・レベイロ・ダ・シルバーです。

13歳の頃、麻薬や犯罪に関与し始めました。悪影響を及ぼす人達と連むようになり、14歳の時、私はすでに強盗をしていました。そこから物事は酷くなるばかりでした。そして、15歳の時、医者が私の脳に問題を見つけましたが、それが何の病気なのか説明する事ができませんでした。手術を2回行い、3ヶ月間入院しました。しかし、その問題は解決できないままでした。

その頃、僕の母はユニバーサル教会のことを知っていて、僕の病気が癒されるために教会で求めるようになり、僕の病は癒されました。しかし、僕は退院してから、また犯罪を犯すようになり、前よりも酷い状況になってしまいました。頭から犯罪の道に潜り、本当に悪いことを沢山してしまいました。しかし、僕は幸せではなかった。自分の中に平和が無く、夜は眠ることができませんでした。時には、「生きている理由はなんだろう」と。何度も死にかけそうになった事がありました。そしてこの状態から抜け出したくて何回も変わると誓ったけど変われなかった。何で自分はまだ生きているのか分かりませんでした。

そこで、ユニバーサル教会を知り、イエス様に自分の人生を捧げることを決意しました。 少し経ってから水の洗礼を受け、神様と約束を果たし、完全に神様の祭壇の上に自分の人生を捧げました。僕は聖霊様の洗礼を受け、自分の人生は完全に変わる事ができました。今では、平和があります。そして、他の若者たちに、僕が見つけたものを見つけだせるように、サポートしています。

ゴイアス州の若者グループの一員です。僕はイエス様を出会えたので、自分が持っている平和をもたらす為に魂を救いたいという大きな願望が僕の中で生まれました。本当に神様は偉大です。

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1977年7月9日にリオ・デ・ジャネイロの郊外にある葬儀場の中にいた少ない人々に対し礼拝を行っていた時、今までにない信仰と思いやりのある大きな活動の始まりであったこと、瞬く間にブラジルの人々を魅了させ、世界中に広がって行くことを誰も想像していなかったでしょう。

例えば、、経済面の向上とプロとして成功することを探し求めている900万人の信者達にとってモチベーションを上げるために、ブラジル内にある7157個の神殿と大聖堂、また2857個の教会は、良い場所となっています。

私たちは愛のセラピーを通して独身の男性や女性に、家族を作り上げるための本当の愛を教えています。

依存症が作り上げる地獄から多くの人々を救いだしています。そして、2016年に行われた「依存症から自由になる」集会では5万5千人以上の人々が助けられました。

深夜の伝道活動では、年間に56万人のホームレスの人々をサポートしています。また、私たちはブラジルにある刑務所内にいる人々が社会復帰をできるようにサポートしています。そして年間83万7千回以上にわたり、その囚人とその家族に対し訪問をしています。

私たちは、ラハブグループを通してDVの犠牲者であった5万6千人の女性をサポートしました。

VYGグループを通して、何万人の孤独で、将来的に善良な市民として歩む希望を失ってしまった若者達もサポートしています。

カレブグループを通して、家族に見捨てられた38万6千人の高齢者たちに愛情と感心を与えています。

このような様々なイベントを実現させる力は、唯一の源である神様の御言葉から来ています。

私たちの社会の中で本当の柱となっている教師達は、自分たちの言葉と態度がどれだけ生徒達に影響を与える事ができるのかを良く理解しています。

このようにして、人の病気を癒す医者、街や橋、家などをデザインする建築家、様々な面においてのエンジニアを育てます。また、教師からくる言葉は、国のために法律を実行させる政治家をも育てます。

教師の言葉が国々の発展と素晴らしい行いをする人々を育てられるなら、神様の御言葉で何が育てられると思いますか?その御言葉を実行する人の人生にどのような結果があると思いますか?

その御言葉は必ず結果を残します。御言葉は時代変わっても書かれている通り果たされます。だから、私たちにとって、御言葉はとても役に立つものです。

その御言葉があるからこそユニバーサル教会の活動があります。そのお陰で、全ての逆境を乗り越え、ここまで成功し広がる事ができたのです。その成功とは国境を超えて、言語という壁、文化社会 、宗教など、様々な違いを乗り越えたことです。

しかしながら、成功は相対的なものです。全世界に御言葉を広めるために、まだやらなければいけない事が有ります。それが、私たちの1番の目標です。

人生の全ての面において変化をもたらすのは、聖書の御言葉の力です。

神様の御言葉のお陰で、ここまで辿り着く事ができたのです。そして、その御言葉によって、より多くの人々に御言葉を届けられると確信しています。

私達ユニバーサル教会は、この40年間全てを神様と御言葉に捧げ続けています。

私達は、『天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。』  (マタイによる福音書  24章35節 ) と確信しています。

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massai-706x432ケニア – カジアドの46マイルの位置にあるマサイ族の伝道活動の発展を見て、より多くの魂を救う確信と他の村へ前進する勇気が持てます。

私たちは、2013年に初めてナイロビの村の人々に接し始めました。とても大変な1年間でしたが、2014年に初めて、その村で礼拝をする事ができました。

初めは、敵意と不信感により迎えられました。マサイ族の兵士達は自分たちの文化と伝統維持をすごく尊重する事が有名です。しかし、彼らはそのようなマーケティングから利益を得ることはありません。私たちが初めて写真を撮ったとき、彼らは憤慨(ふんがい)してカメラを地面に投げつけようとしました。

徐々に、私たちは彼らを助けるために、自分たちが約束した事を果たす事によって、長老達の信頼を得る事ができました。この地域は水不足に悩まされており、彼らが所有する唯一の富である動物の繁殖も厳しく、また、食糧不足によって苦しんでいます。

常に私たちは彼らの要求に応じて、ケニアの大統領夫人に認可を受け、食糧援助、そして、移動式設備の支援を得て地域の医療を推進しています。

2015年、私たちはユニバーサル教会を建てる為に、そこに土地を購入することができました。そして、2016年、地域の為に井戸を掘り出し、抽出された多くの飲料水を、地域の人々に無料で配布しています。

村の政府のワンジク・ワンブイさんは、教会がこの村で活動してからの2年間、 干ばつの中であっても村はとても発展し続けている事を打ち明けてくれまた。

そして、私たちの教会も大きく発展しています。現在、200人のメンバーが各地域から来て、その中には徒歩2時間かけて毎週日曜日の礼拝に参加されている人々もいます。牧師が礼拝場に入るときには、既に椅子は綺麗に並べられていて、子供達は全員EBIの託児所にいます。実は、マサイ族の人々は多くのものに信心深い人々でありながらも、イエス様を知り救いの御言葉を受け入れました。そして病気、依存性、精神的に癒され解放された証しが多くあります。

最近の訪問で、私たちがマサイ族の住む村に訪れた時、マサイ族の中で最初の伝道者4人に出会えた事によって、私たちは光栄でした。そして、その中の1人アブラハムさんは、マサイ族の兵士であり、自発的に教会の礼拝の通訳を 行ってくれています。彼は、聖霊様を受けて、神様と本当の親密な出会いによって生まれる変化を経験したと語りました。

マサイ族には独特な習慣、大きな社会問題、あらゆる課題、文化の壁があります。しかし、彼らにとって、このような事は、私たちが信じる神様を知る妨げとはならないのです。

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暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。マタイによる福音書   4章16節

 

暗闇に住んでいる人々とは、完全に霊的に盲目となり人生を過ごしている人々を指しています。宗教や哲学に欠けているのではなく、自由にして下さる賢い信仰が欠けているのです。自由になる権利があるか無いかは関係ありません。その賢い信仰にアクセスするには、聖書に書かれている真実の知識が必要になります。

 

聖書に書かれている御言葉の知識が欠けている為、選択する道が無く、導きがないまま、光が見えなくなり、多くの人々が死の地に辿り着き、死の暗闇を生きているのでのす。死の地とは死を待つ人々がいる場所です。それは 、医者に余命され生きる希望がない人や、うつ病、また、多くの問題によって苦しみ、生きるのを諦めようとしている人々のことです。

しかし、暗闇を生きている人々や、死の地にいる人々にとって唯一決定的で効果的な無料の「薬」が存在します。それは神様の口から出た御言葉です。

 

そのシンプルな御言葉の知識がある事によって賢い信仰が生まれ、それによって信じる人々の必要性を満たしてくれます。その信仰は、神様の聖霊様から必要性に応じて来るのです。それは偉大なる光であって、その光はイエス様が生まれた時から輝いているのです。イエス様は、肉となった神様の御言葉です。

 

だから、賢い信仰は、宗教とは何も関係がありません。賢い信仰は、善人か罪人か関係なく、御言葉を信じる人全員に結果をもたらします。したがって、光が暗闇の中で生きている人々や死の地にいる人々のために輝くのはこのためです。

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ユニバーサル教会の40年の間で、私は、信仰の最大かつ最も効果的な秘訣を学びました。それは「犠牲」です。私は、それを神学校や信仰生活の13年間で学んだのではありません。ユニバーサル教会が成長すると共に学んだのです。私は沢山の謎につまずき、時には感情的な信仰の罠に陥ったけれども、賢い信仰を使いました。とにかく・・・

 

聖霊様は、感情的な信仰と賢い信仰の違いを区別できるようになる為、私を砂漠に導くことが最善と思ったのでしょう。砂漠の難関を乗り切る為には賢い信仰を使わなければなりません。実際に犠牲が大きければ大きいほど、意識的な信仰の確信とその成果も大きいという事を学びました。断食とお祈りだけに基づいて得た勝利は一つも思い当たりません。もちろん、神様とのコミュニケーションにおいて基本的なものですが、それに行動が伴わなければいけません。 それは衝動的で『狂った』ように見えるかもしれませんが、神様の聖霊様によって確信で満たされています。

 

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。ピリピ人への手紙   2章13節

 

私は、何度も恐怖を感じて後退しようとした事がありました。しかし後退するには遅過ぎたので、前進するのみでした。私には他の選択肢がなかったのです。全能なる神様の導きがなければ、絶対に私は負けていたでしょう。

 

私は聖書に書かれている信仰のヒーロー達が、初めから勇気があったとは思いません。むしろ、彼らの勇気と大胆さは、彼らの中に働かれている神様から来ています。

 

犠牲は信仰を確信し、犠牲者の勇気を刺激させます。昔イスラエルでは、戦争に行く前に、まず祭司達は神様に犠牲を捧げていました。その犠牲とは罪を許されるための犠牲では無く、敵に勝利したことを前もって感謝するための犠牲の捧げ物なのです。万軍の主が自分たちの味方だという事を確信し、信仰の鎧(よろい)を着て、兵士達は軍事力など気にしないで敵に立ち向かっていたのです。犠牲は神様との絆のシンボルであって勝利の確信だったのです。

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全ての人は種を蒔いて収穫の日まで待つ忍耐を持っています。月末まで給料を待つ忍耐、子供が産まれるのを待つ忍耐、就学を終えるまでの忍耐、そうです。忍耐が必要とすることに関して忍耐を持てます。しかし、神様の誓いのことになると心配し不安になる人がいます。

 

感情的な信仰の持ち主は、難関が立ち上がる時に正しい時を待つ忍耐がありません。

 

感情的な信仰は盲目と同じです。それは、人を現実から離れさせ心の声を聞かせます。感情的な信仰を生きる人は、今 見えていることにしか注目をしません。そして、何事も感情によって選択をしてしまうのです。そのような人々は無邪気な子供のように、簡単に騙され、人に流れさやすく、子供のようにチョコレートや飴など、とにかく輝く物に気をとられ、心に受け入れてしまうのです。

 

そのような信仰の態度によって、いろんな犠牲者は、この世の魅力が一番となり、商売や依存症というライオン(悪)の巣窟にかかります。それは、不必要なものを買う強迫的な消費者に変え、理由もなく多大な借金を作らせます。感情的な信仰はどんな殺虫剤よりも致命的です。それが自殺の主な原因なのです。

 

そのことに対して聖霊様は警告しています。

 

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

コリントの信徒への手紙二 / 4章18節

 

感情によって見えるものに基づいて生きる人々は、思考ではなく心によって選択をします。これは神様を喜ばすことができず、何よりも最悪なのは、決して自由になることがないということです。

 

神様の御言葉を信仰によって生きる人が、神様を喜ばせることができます。宗教的な人生のことではありません。信仰によって歩むとは、神様の御口から出た御言葉、聖書に書いてある通りに歩むことです。その御言葉は真実であり永遠だからです。感情に基づいて生きている人が、どうのようにして目に見えないことに注目することができるのでしょうか?不可能です。目に見えないことを注目する為には霊的でなければできません。霊的に歩むのです。それは思考を使った信仰によって歩むのです。

 

だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。

ヘブライ人への手紙 / 10章35,36節

 

まだ、神様の御心に沿って歩んでいないのなら忍耐しようと努力しても無駄です。夫への恨みが心の中にあるなら、神様の誓いが果たされるのを待っていても無駄です。神様の誓いが果たされるのを待ちながら、ほかの人を悪い目で見ていたら意味がありません。神様の誓いが果たされる為には、まず神様の御心を行わなければなりません。

 

ここで次のステップを知る為に、思考を使って答えて下さい。あなたが今、望んでいる事に対し、あなたは神様の御心を行っていますか?

神様の御心が分からないのら、そこから始めなければなりません。あなたが従うために必要なことを学ぶために神様に聞き、聖書を読み考えてください。もし、あなたは既にやらなければいけない事を知っているが、まだそれを行なっていないのなら、それを行なって下さい。あなたが既に神様の御心を知り、神様の御心を行っているのなら、あなたが今必要とするのは、約束を得るための忍耐です。

過去の記事

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罪はこの世で1番最悪な疫病となっています。罪は人間や動物に伝染するだけでなく、地球上全体に感染したのです。そして、昔から現在も罪の呪いを取り除く方法は一つしかないのです。それは、罪が死ぬことです。 しかし、罪人を犠牲にすることなく、罪をどうやって死滅させることが出来ますか?それは、完璧で罪のない者、または罪人の身代わりを通してのみできます。

罪人の身代わりになる犠牲の捧げ物は罪に感染されていてはいけません。何故なら、それは誰かが汚れている血を輸血しようとする事と同じだからです。絶対にあってはいけない事です。罪人の身代わりになる者も同じで、完璧でないといけません。

罪のない完璧な動物を犠牲の捧げ物にして、アダムとエバの「裸」を隠されたように、イエス様は、この世の罪を取り除く神様の子羊を象徴しています。 罪のない動物を犠牲の捧げ物にした事により人類の生存を保つ事が出来たのです。しかし、残念ながら魂は、罪のDNAに感染し病気になっています。そのように人類は、感染したまま成長したのです。

アダムとエバはそのまま生き続けましたが、いと高き神様の存在から離れた生活でした。

人類がまた神様との絆を取り戻す為に、神様は捧げ物と犠牲を律法に定めたのです。その律法とは信仰に基づいていなければなりません。なぜなら、犠牲の捧げ物を持って罪人が神様の元へ近寄るが、心の中は憎しみで溢れている事を想像してください。それは可能だと思いますか?

自発的な捧げ物、罪の為、何かを得るための犠牲の捧げ物、献金、10%や他の捧げ物、全てにはそれぞれ異なる目的と意味があります。しかし 全ての捧げ物と犠牲には一つの霊があります。それは信仰の霊です。勇気を持って祭壇に上がり犠牲の捧げ物ができる方は、神様の霊により明かされた者だけしかできません。

過去の記事

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この質問は、罪のための犠牲と信仰を試すための犠牲の違いが理解できない人々がよく持つ疑問です。

イエス様が私たちのために十字架で御自身を犠牲に捧げられたとき、その犠牲は私たちの罪のために捧げられた犠牲なのです。イエス様は私たちの身代わりになる為、父(神様)に捧げられた羊なのです。それ以降、罪によって犠牲の捧げ物をする必要がなくなりました。 ただ、信じて父に捧げられた者を受け入れ許される為に、神様の言葉に従い生きていくのです。その結果として、救いを得ることができます。

しかし、罪をなくすために行われていた犠牲は、犠牲の中の一種類にすぎませんでした。信仰を試すための犠牲の捧げ物は、イエス様の犠牲よって廃止されたことを示すものではありません。。その反対で、新約聖書にも信仰を試されるような犠牲の捧げ物が求められ、行動に移されていたことが見られます。金持ちの若者(ルカの福音書18章22節)、ザアカイ(ルカの福音書19章8節)、最初の頃の教会(使徒行伝4章34節) とパウロからのアドバイス(コリントの信徒への手紙二/8章8節)、他にも沢山あります。

神様がアブラハムに自分の息子イサクを犠牲の捧げ物にしなさいと言われたとき、アブラハムは罪によって生きていたわけではありませんでした。アブラハム自身の信仰を試していたのです。同じように神様がギデオンにギデオンの父の第二の牛を捧げ物として捧げなさいと言われたとき、罪のための犠牲ではなく、神様を頼りきるために試されたのです。

このように、信仰が試されるための犠牲の捧げ物は廃止されたのではありません。
実は創世記の時代からあったように今でも必要であり、これが現実なのです。

過去の記事

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私の人生には昔と今が存在します。1984年9月6日に祭壇へ自分の人生を犠牲の供え物として捧げてから変わりました。神様が私を変えてくれたのです。私の病気を癒やして下さり、悪霊から解放してくれました。空っぽだった心を神様の霊で満たしてくれました。本当の男になることや家族を築き上げ 家族のリーダーとして違いを示す事を教わりました。神様を畏れ、仕える事を教えてくれました。私の心の中にある苦しんでいる魂を愛する事を教えて下さり、私を勝利者にして下さっています。犠牲という名 に栄光あれ。

疲れ果て追い詰められている方へ 犠牲がこう語ります。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。マタイによる福音書 11章28節

神様は神につまづかない人をお呼びになっています。

…わたしにつまずかない者は、さいわいである」。マタイによる福音書 11章6節

神様の使徒になり、古い人生を捨て、新たな人生を築き上げたい方を、神様は誘っています。

それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。                マタイによる福音書 16章24-25節

犠牲はこう言います。父にたどり着くため、他に道が無いと。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

                       ヨハネによる福音書 14章6節

神様は、どうしたら祝福されるのかを教えて下さっています。

わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。          ヨハネによる福音書 14章13節

ここで、不信仰な方へのアドバイスです。

わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。ヨハネによる福音書 14章11節

ここで、金の鍵で閉めたいと思います。神様は約束をしています。

わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。”ヨハネによる福音書 14章16,17節

イエス様は犠牲そのものです。

また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。              エペソ人への手紙 5章2節

単純に人間がこの世で自身の欲望や自分の中にある、
イエス様の居場所を邪魔するものを犠牲にしなければ、
神様の言葉を従い生きる事は不可能なのです。だから、
犠牲が唯一私たちに勝利をさせる道であり、この世だけの
勝利でなく、特に私たちの魂の救いです。

よく考えてください。

過去の記事

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霊的な人生を生きる中で経験を生み出します。経験豊かな人は、他の人が見えていない事を見ることができます。

自分達の人生を、神様の言葉に基づき従って生きている伝道師の夫婦 ジルマール とグロリザは、完全に深い沈黙の中で強い警告に気づくことができました。

先週の土曜日、その沈黙は伝道師 夫婦に「叫んだ」、伝道師の夫婦はマットグロッソ・ド・スル州のカンポ・グランデというシンプルな町で祈りの会を行ないに行きました。そして、ある家の前で扉を何度も叩いて家の人を呼びました。しかし、誰も応答せず留守のように思えました。

だから、次の隣の家に行くことを決意し、行きました。隣の女性の方とのお話しはすぐに終わり、3人目の家に行こうとした時、伝道師のジルマールが誰もいないと思っていた最初の家からある男性が出たことに気づきました。その男性は重い雰囲気をただよせながら、ただ家の中の天井の方面を差していました。

そこには、木の柱に縄が吊るされていました。その男性は、涙ながらに、混乱した状態で、このように言いました。私は麻薬に関わってしまい、妻と子供達は家から出て行ってしまい「今、自殺寸前だったんだ、もう、こんな苦しみに耐えられない、でも、あなたたちが扉を叩いたので、開けることにしました。」

その男性の人生の話しは、伝道師の人生と凄く似ていまいした。 何年か前、ジルマールは結婚生活が破局していて、自殺を図ることだけでなく妻を殺すことも考えていた。しかし、ユニバーサル教会に来て全ては変わったのです。「私は、彼に自分の人生はあなたの人生よりも酷かったところがあったと伝えました。後、信仰により人生が変わった人々の事例も伝えました。彼は、重い表情から驚きの表情で、それが起きるのは私だけじゃないんですね? 私は彼に私たちが乗り越えることが出来たなら、絶対にあなたにも乗り越えることが出来ます。と答えました。」

伝道師の夫婦は、その男性のためにお祈りをして、ジルマールは柱の縄をとり外し、絶望していた彼にこう言いました。「この縄を預かります。あなたの人生が変わった時、あなたはこの縄を見て神様があなたをどんな状態から救ってくれたかを思い出します。」 神様のお陰で男性が悪に支配され、死にかけていた直前、扉を叩く音を聞かせてくれたのです。

実は、自殺行為をする人は死にたいのではありません。

ただ、苦しみに終わりをつけたいのです。

しかし、その後、人生が続くならば、苦しみに終わりをつける事が出来ます。

この歴史は始まったばかりです。きっとこれからも耳にすると思います。

多くの人のモチベーションとなって助け、自分のためとしても問題を乗り越えることができ、より良い人生を築きます。

 

過去の記事

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二つとも似たような意味を持つ言葉ですが、大きな違いがあります。一つの例えは、結婚する為に信仰を持つことは一つ、又その結婚が長持ちする為に信仰を持ち続けることは難しいことです。そこで信頼が必要です。信頼は、信仰の継続です。信仰が成長するほど、信頼性も成長するのです。

 

「若いときにも老いた今も、わたしは見ていない/主に従う人が捨てられ子孫がパンを乞うのを。」詩篇37章25節

ダビデ王は神への信仰と信頼の両方で、様々な経験がありました。若者であった時は信仰の行動の素晴らしい経験を集めました。このため、自分の信仰の作者である神様を信頼することを学びました。彼の過ちの深刻さにもかかわらず、ダビデ王は信仰と信頼をそのまま保持しました。信仰を世話することによって謙虚なままで自分の罪を認識して、赦されました。彼の名前を命の書に維持するのに十分でした。

信仰は、信頼が与える利益を維持するために必要です。信仰を失ってしまった為、信仰の多くの成果も失われてしまいました。

信仰を使って成功しているが信仰を失うなら成功も失ってしまうのはもちろんです!多くの病は信仰によって癒されますが、信仰を使っていない、又は信仰が病気だから病も戻ってしまいます。それが起きてしまう原因は、信仰によって成功するならば、疑いがある時、自分が活躍したことを失ってしまう。愚かな者は自分を成功へと導いた信仰を捨ててしまい、絶望な人生へと導かれます。

信仰は力であり、疑いにも力があります。信仰の力がいつも行動に出しているのならば疑いの力が弱まります。ですが、信仰の力が弱まってしまったら、疑いの力が勝ってしまいます。

信仰は精神面を力づけます。しかし、もしその信仰を行動に出していなかったら、その力は弱まり、疑いの力が勝ってしまい信仰の成果を溺れさせてしまいます。

わたしは福音を恥としない福音はユダヤ人をはじめギリシア人にも信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです福音には神の義が啓示されていますがそれは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きると書いてあるとおりですローマの信徒への手紙1 1617

 

そのために自分の信仰を大切に守らなければなりません。その信仰を通して人は神様の御前で正しい者とされます。これは大切なことであって無視してはいけません。

 

信仰は大切にして自分の求めることが実現する為に重要なことです。成功する事は難しくはありません。難しいのは成功を保つことです。

それが可能なのは信頼する時から始まります。

過去の記事

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命の息、霊の息、又は神様の息吹はアダムを生きる魂とされた神様の働きを表します。それは人類の始まりであるエデンの庭で起こりました。そして、現在でも、新しく生まれる事、水と霊によって生まれる事を通して同じ霊が働かれています。違いは、今日のアダムは罪によって霊的に死んでいる人々を表します。こう言う人々が神様の声を聞き従う時(聖書に従う事)、彼らは聖霊の息(信仰)を受けて、主イエスキリストのイメージのように命を与える者となります(コリントの信徒への手紙一15章45節)

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」創世記2章7節

 

ユダヤ人の宗教の先生にイエスはこう言われた:

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。だれでも水と霊にとによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」ヨハネによる福音書3章3節、5節

 

聖霊様は弟子を通してこの変化についてこう説明されました:

「最初の人アダムは命のある生き物となった。最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。」

コリントの信徒への手紙一15章45〜48節

 

最初の人間が命を与える霊となるために息を与えた酸素は、聖霊様から生まれた人たちを立ち上げる同じ酸素です。それは、神の御言葉を聴く事によって生まれる信仰です。
上記のメッセージに基づいてこのような質問ができます:

あなたは水と霊によって生まれ変わりましたか?

つまり、あなたは再び生まれ変わりましたか?
あなたは天に属する者ですか?地に属する者ですか?

もし今日亡くられたら、あなたは救いの確信がありますか?

 

パウロは言われた:

「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」

コリントの信徒への手紙一15章50節

過去の記事

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シリアでは内戦が始まったため、約40万人が死亡した。 また、難民の数は450万人を超えており、人口の約70%が最低生活基準(貧困ライン)を下回り暮らしていると推定されています。 シリアでの破壊は、首都であるアレッポ、クサイル、ホムス、ダマスコなどの都市に影響を与えた。

この戦争は、若い少年のグループがバシャール・アサド大統領政権に反対を表明した2011年に始まった。 彼らは逮捕され、拷問されたが、これで問題は解決されなかった。 逆に、抗議行動はいくつかの都市を取り巻き、ますます拡大した。大統領の辞任を要求した平和的な動きを受けて、政府の治安部隊は、デモ参加者を弾圧し戦い、死を引き起こし激しさが増した。

民間人が武器を取って政府軍と戦い始めたときに、都市を支配し権力を握るという意図で紛争が増えた。 私たちが今日見ていることは、いくつかの内的要因と外的要因の影響を受けた別の戦争における戦争です。

人類に対するこのような悲劇や犯罪に直面したとき、シリア、特に首都ダマスカスで起こっていることをイザヤ書に書かれた預言を関連づけないことは不可能です。

ダマスコについての託宣。「見よ、ダマスコは都の面影を失い/瓦礫の山となる。イザヤ書/ 17章 1節

ダマスコの一部を含むいくつかのシリアの都市が荒廃している。 しかし、ダマスコが紀元前732年にアッシリア人によって征服されたとき、聖書の預言が現在のシナリオか他の時を参照しているかどうかを知る方法はありません。それにもかかわらず、この戦争が引き起こす驚きは、特にホムスの街での破壊の空中写真を見るときには、否定できない。それらには、住宅、通りや建物がかつて存在していたことを想像するのが非常に難しい、終末論的なシナリオがあります。

同じように、かつては神様の御霊の手にとても有益だった人々が、今やこのような瓦礫に似ていると想像するのは非常に難しいです。 彼らは最高位の存在のもとにしっかりと立っていて、神様の秘密、思考、望みを知っていましたが、今日は爆撃された都市のように霊的な戦争に敗れたために人生を再建しようとしています。

破滅は人の信仰が冷えたときから始まり、完全な霊的な分裂と不義の生活につながる悪い目、争い、悪い感情などの不和が生じます。しかし、瓦礫から立ち上がることは可能です。最初のステップは、誰も自分の破片を集めて再構築することができないことを認めることです。第二のステップは、滅びた人生にもかかわらず、主が新たな始まりの機会を与えることを信じて、謙虚になり、神様に戻ることです。これは、神様を栄光するために信仰を通して、神様が堕落した者を立ち上げることができるように、破滅させた不義を義に変えることができます。

過去の記事

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小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」ヨハネの黙示録/ 6章 9,10節

反抗は結果をもたらす信仰の燃料です。それがなければ、変化も奇跡も、神様の力の現れもありません。反抗がある場合のみ天が私たちに有利に動くといことです。それは私たちが生きるか死ぬか、イエスかノーかという挑戦に導くからです。

私たちが受動的に諦めたり、独り善がりしている時、神様は現れません。反抗のない信仰は、塩のない食べ物、光のない太陽、星のない夜にたとえることができます。

御座の下にあるこれらの魂は救われましたが、反抗していました。彼らは待ち疲れていました。それは、本当に救われた人々は敗北と恥を受け入れることを拒否するからです。救われた人々は神様の正義を見たいと思っていました。そのために彼らは叫んだだけでなく、大きな声で叫びました。 彼らは正義を求めて待っていることを拒否した。

どのぐらいの間?これは、神様に仕える人々がしなければならない質問です。結局のところ、私たちは誰に仕えているのですか?もしそれが偉大なる神様ならば、彼の驚異はどこですか?彼の栄光の働きはどこにありますか?どのくらい待たなければなりませんか?どのくらいの間、私たちの血と痛みが裁かれていないままですか?

単に善良であること、あるいは単に牧師、伝道師、教会のメンバーであることによって、人生や状況を変える人はいません。変化は本当の反抗がある場合にのみ起こります。それは私たちを全能者の御座に導き、私たちの血を注ぎ、犠牲をし、変化を要求するように導きます。

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